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【発言要旨】ゼロ金利制約の克服:日本の経験

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フランス銀行・BIS共催「ノワイエ総裁退任記念シンポジウム」における発言の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2016年1月12日

ノワイエ氏の退任記念シンポジウムにお招き頂いたことに、感謝いたします。ノワイエ氏の12年間にわたるフランス銀行総裁としての傑出した業績は、フランス経済の発展への貢献は言うまでもなく、ユーロ圏経済全体の歴史を形作るものです。私は、その偉大な功績に敬意を表します。そして、ノワイエ氏には、日本銀行との間でも密接な連携を行わせて頂き、極めて良好な関係を築かせて頂いたことにも、感謝の意を述べたいと思います。

本セッションのテーマは「ゼロ金利制約を超えて:金融政策へのレッスンは何か」ということです。このトピックを語るうえでは、私はおそらく世界中で最も資格のある人間の一人ではないかと思います。というのも、私は、10年以上にわたりゼロ金利制約と格闘し続けてきた日本銀行を率いているからです。本日は、我々の経験と、我々の金融政策運営がどのように変化を遂げてきたのかという点についてご説明したいと思います。

2008年に発生したグローバル金融危機以降、ゼロ金利制約の克服は、先進国の中央銀行にとっての共通課題となりました。しかし、日本は、バブル経済崩壊後に多数の金融機関の経営破綻が生じ、経済がデフレに陥ったことから、1990年代末の時点でゼロ金利制約の問題に直面しました。当時、この状況を、ポール・クルーグマン教授が「Japan's trap」と称したことは皆様ご記憶にあろうかと思います。彼は、「流動性の罠」は、長い間、マクロ経済学の教科書の片隅に載っている理論的な可能性に過ぎないものと見做されていたが、日本は実際にその状況に陥っている、と述べました。

こうした罠から抜け出すべく、日本銀行は、それまでに前例のない政策対応を行いました。1999年には、翌日物金利を「できるだけ低く」誘導するゼロ金利政策を導入しました。2001年には、金融市場調節の操作目標として短期金利ではなく日本銀行当座預金残高を採用し、量的緩和を、現代の金融史上、初めての試みとして導入しました。これらの施策は、インフレに関する一定の条件が満たされるまで継続するというコミットメントにより強化されました。すなわち、日本銀行は、今日では「フォワード・ガイダンス」という言葉で表される施策の開拓者であったのです。

この時期、世界は21世紀を迎え、欧州諸国では新通貨ユーロの導入に沸いていました。しかし、地球の裏側では、日本経済が、1930年代における米国の大恐慌期のようなデフレスパイラルに陥る可能性が真剣に議論されていました。もっとも、実際には、そうした最悪の事態は回避されました。この理由の一つは、日本銀行が金融市場に対して潤沢な資金供給を行い、流動性に対する市場の不安を払拭したことにあります。そのことは、経済の大幅な減速を回避するうえで、重要な役割を果たしました。実際、その際に得られた知見―中央銀行が金融危機の際に潤沢な流動性供給を行うことが、安定性の確保に役立つこと―は、近年のグローバル金融危機に対する中央銀行の対応を決める際に役立ちました。しかしながら、こうした施策は、慢性的なデフレを終焉させたり、持続的な経済成長を実現させたりするほどには強力なものではありませんでした。

日本経済はなぜ「流動性の罠」から抜け出せずにいたのでしょうか。事後的に考えてみると、2000年代の日本経済では、インフレ期待の低下と潜在成長率の低下が同時進行していました。名目金利が低下し、ひとたびゼロ制約に直面すると、インフレ期待の上昇が生じない限り、実質金利は低下しません。一方、いわゆる「ヴィクセル的」観点によれば、潜在成長率の低下は、「自然利子率」の低下を招きます。これら2つの事象が同時に生じたことにより、日本銀行は、実質金利を自然利子率よりも大幅に低い水準に誘導することができませんでした。このことは、日本銀行が、金融政策の最も重要な経路を失ってしまったことを意味します。

この状況を本格的に打開するため、日本銀行は、私が総裁として着任した直後の2013年4月に、「量的・質的金融緩和」(QQE)を導入しました。QQEがそれまでの試みと異なるのは、それがインフレ期待に直接的に働きかけるものであるという点です。具体的には、QQEは2つの柱で成り立っています。一つ目は、2%の物価安定の目標を実現することへの強く明確なコミットメントです。二つ目は、コミットメントを裏打ちするための、前例のない規模での資産購入です。このうち、前者は日本に特有の要素です。後者は、グローバル金融危機後に主要先進国の中央銀行が採用した非伝統的金融政策の間で、多かれ少なかれ共通する要素ですが、その規模自体はまさに前例のないものです。実際、マネタリーベースの名目GDPに対する比率は、米国や英国では20%〜30%程度である一方、現在の日本では60%を超えています。

QQEを導入してから2年半以上が経過しました。QQEは、所期の効果を発揮しています。物価の基調は着実に改善しています。例えば、生鮮食品とエネルギーを除いたCPI上昇率は、26か月連続してプラスとなっており、これは1990年代後半以降初めてのことです。その最新の値は、11月に1.2%となっています。こうした改善傾向は、非常に良好な雇用環境によって支えられています。失業率は3%近傍まで低下し、わが国の完全雇用状態に相当すると考えられる水準まで低下しています。賃金も緩やかに上昇しています。この点に関連して、デフレの時期には長いこと生じなかった、ベースアップの慣行が、労使間の年次賃金交渉の中で復活したということは、強調に値すると思います。こうした環境のもとで、小売業者によるマークアップ確保の動きが、消費者に受容されるようになってきています。

もっとも、日本銀行による2%の物価安定の目標達成に向けた取り組みは、依然として途半ばにあります。日本経済のデフレ状態は15年続きましたので、人々の間に染み付いたデフレマインドを転換することは、もちろん簡単ではありません。しかし、誰かが断固たる決意を持って行動しなければなりません。問題が物価である以上、その役割を果たすのは中央銀行です。

現在、欧州中央銀行(ECB)も、資産買入れやマイナス金利の導入など、大幅な金融緩和を行っています。これまで長年にわたりインフレ期待が2%近傍にアンカーされてきたユーロ圏の状況は日本とは異なりますが、ECBは、潜在的なリスクを未然に防ぐために、大胆な金融緩和を実施していると理解しています。経済環境はそれぞれ異なりますが、我々はともに、物価安定を実現するための、強い決意を持っています。その意味で、ECBと日本銀行が、同じように積極的な金融緩和を行っているのは偶然ではありません。ユーロ圏と日本における金融政策がいずれも近い将来に成功し、マクロ経済学に新たな章が開かれることを信じています。