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【講演】「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」による予想物価上昇率のリアンカリングカンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウム(米国ワイオミング州ジャクソンホール)における講演の抄訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2016年8月27日

目次

1.はじめに

今回も、ジャクソンホールでの経済シンポジウムでお話しする機会を頂戴し、大変光栄です。ジョージ・カンザスシティ連銀総裁には、このパネル討議へのご招待を頂いたことを感謝しています。

過去20年間以上、日本経済は、様々な困難を経験してきました。すなわち、長きにわたるデフレーション、潜在成長力の低下、幾度かの金融危機、また、急速な高齢化とこれに伴う労働人口の減少に起因する構造問題などです。これらの困難な経験を踏まえ、金融政策の頑健性(resilience)ということを考えるにあたり、観察されているある事象を強調しておきたいと思います。それは、長期的にみると低インフレと低金利は共存する傾向があるということです。そうした低インフレ・低金利下では、名目金利にゼロという下限制約があるため、中央銀行には政策金利を引き下げる余地がごく僅かしかありません。言い換えると、金融政策——厳密には伝統的ないし標準的な金融政策——の頑健性は著しく損なわれることになります。

2013年3月に私が総裁に就任した後、日本銀行は、マイルドではありますがしつこいデフレを克服するため、速やかに「量的・質的金融緩和」を導入しました。「量的・質的金融緩和」はそれまでの金融政策手段の限界を超える2つの要素からなっています。第一に、日本銀行が2%の「物価安定の目標」を出来るだけ早期に実現するという強く明確なコミットメントを示し、これを裏打ちする大規模な金融緩和を行うことで、人々のデフレマインドを抜本的に転換し、予想物価上昇率を引き上げることです。第二に、巨額の国債買入れと極めて大規模なマネタリーベースの供給によって、イールドカーブ全体に低下圧力を加えることです(図表1)。これら2つの要素が相俟って実質金利を押し下げることで、強力な緩和効果が発揮されてきました。

2014年10月には、「量的・質的金融緩和」は、「量」と「質」の両面で拡大されました。その後、2016年1月には、「量」と「質」に続く3つ目の次元である「(マイナス)金利」が付加され、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」として拡張されました。「量的・質的金融緩和」は、3つの次元での政策手段——量、質、金利——をフル活用することが可能な柔軟かつ強力な政策的枠組みへと進化しました。

こうした経緯を踏まえ、本日は、金融政策の頑健性をどのように確保すればよいかというテーマを考えるにあたり、鍵となる2つの課題に焦点を絞ってお話ししたいと思います。

2.インフレ予想のリアンカリング(Re-anchoring

原油価格とインフレ予想

多くの方がよくご承知の通り、2014年の夏頃から原油価格が大幅に下落しました。インフレの予測という観点からは、原油価格の下落は通常、一時的な動きとみなされるものです(図表2)。原油の先物市場をみても、翌年以降、さらに下落が見込まれていたという訳ではありませんでした。したがって、米国におけるSurvey of Professional Forecastersの6年先から10年先のインフレ予測値が極めて安定的に推移していることからもわかるように、米国では長期的なインフレ予想には変化はみられませんでした。対照的に日本では、不可解なことに、長期的なインフレ予想に弱めの動きが観察されています。長期的なインフレ予想を測るためのデータの違いなど、技術的に異なる点はありますが、そうした点を考慮しても、このところの日本の長期的なインフレ予想に弱めの動きがみられることについて、その一部が2014年以降の原油価格の下落に起因するとの見方を否定することは難しいように思われます。

程度はともかくとして、消費者物価指数(総合)の前年比上昇率が原油価格の下落の影響を受け低下したことは、多くの先進国で共通して観察された事象でした。しかし、基調的な物価上昇率について日米を対比してみると、その回復ペースには、はっきりとした差がみられました。米国のエネルギーを除く消費者物価上昇率は速やかに2%へ復したのに対し、日本の消費者物価(除く生鮮食品・エネルギー)の前年比上昇率はプラスを保ちつつも2%をかなり下回っており、相対的に低い水準となっています。こうした違いを踏まえると、日本のインフレ動学は米国対比、原油価格の大きな変動を含む外的なショックに対する頑健性が低い(less resilient)と捉えるのが妥当です。

既に触れたように、原油価格の変動は、通常一時的と受け止められることから、長期的なインフレ予想に対して持続的な影響を与えるものではないと考えられます。まさにこうした通常のケースが米国では成り立っていると考えられます。通例とは違う日本のケースを理解するためには、何らかの別の要因を考慮する必要があります。日米のインフレ動学の違いについて、1つの解釈として、米国では長期的なインフレ予想が2%近傍にしっかりとアンカーされているのに対し、日本ではなお十分にアンカーされていないという見方ができます。日本では、実際のインフレ率に対する原油価格の下落の影響が予想インフレ率の弱めの動きを通じて増幅されてしまったと考えられます。

このようなインフレ予想と実際のインフレ率の間の相互作用についての解釈は、現時点では、今後しっかりとした実証分析によって検証されるべき仮説という位置づけです。そのうえで敢えて言えば、データからは、そうした解釈を支持する兆候がいくつか確認できます。米国の6年先から10年先のインフレ予想が前年比2%程度で安定的に推移しているのに対し、同様の日本の指標は安定しておらず、振れが大きいことが特徴です。より重要なポイントとして、「量的・質的金融緩和」が開始された2013年以降は幾分高まりがみられているものの、長い目でみれば1990年代以降、日本の長期的なインフレ予想は、2%より低いままであったという事実があります。こうした観察事実と整合的で、実証的な検証に値する仮説として、2014年時点で日本経済はリアンカリングの途半ばであったため、インフレ動学が負のショックに対して脆弱だったということになるでしょう。

インフレ動学の学習プロセスについての理解

ここまで述べたように、長期的なインフレ予想の動きが日米両国間で異なっていることを踏まえると、「人々はどのようにインフレ予想を形成しているのか」という、より深い問題に至ります。

理論的には、完全情報・合理的期待モデルが、金融政策分析において有益なベンチマークを提供してくれるものとして広く受け容れられています。一方で、実態としては企業や家計は保有する情報をさほど頻繁には更新しないことが分かっています。また、長期的なインフレ予想に関する顕著な「見解の相違」が、しばしば、かなりの長期間にわたって存在しつづけることも知られています。インフレ予想は、「適合的」ないしは「バックワード・ルッキング」に形成されるといった議論が繰り返し聞かれます。完全情報・合理的期待モデルから距離をおいたこうした議論は、必ずしも予想や期待が「非合理的」に形成されるということを意味しません。これまでの経済学の研究では、合理的な経済主体は、情報収集にコストがかかる状況において、情報を必ずしも常に更新する訳ではないことが明らかにされています。

日本の1990年代の経験を振り返ると、消費者物価上昇率がゼロ%近傍ないしは、しばしばマイナスとなる期間が続くという状況のもと、長期的なインフレ予想は、振れをともないつつ下方トレンドを辿っていました(図表3)。インフレ予想の不安定化は、数度の金融危機を含む日本経済に対する負のショックを増幅させ、デフレ脱却のための様々な政策的な取り組み——ゼロ金利政策や量的緩和——の効果を減殺してきたと考えられます。

日本の経験に照らして明らかなように、長期的なインフレ予想を目標水準近傍にアンカーすることは、頑健な金融政策の枠組みを確立するための前提条件です。こうした考え方を踏まえ、日本銀行は2%の「物価安定の目標」の実現にコミットしたうえで、現在、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を推進しています。インフレ予想を「物価安定の目標」である2%に向けて押し上げていくこと、そして、そこにアンカーすることが、この政策の眼目のひとつとなっています。

3.マイナス金利政策の波及経路(トランスミッション・チャネル)

マイナス金利政策:実際にはどのように機能するのか

もう1つの足もとの課題は、日本銀行を含む複数の中央銀行によって既に導入されているマイナス金利政策の運用です。マイナス金利政策は、最近になって中央銀行の「非伝統的政策の道具箱」に追加された手段です。2016年1月、日本銀行は「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を導入し、民間金融機関が持つ当座預金残高の限界的な増加額に適用される金利を−0.1%に引き下げました。この新しい政策は、金融機関の限界的な資金調達コストを引き下げ、これによって、銀行間短期金融市場における取引はマイナス金利で行われるようになりました。日本の国債市場をはじめ様々な金融市場は、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入に対し、顕著に反応しました。とりわけ、長期・超長期の国債金利は、大幅に低下しました(図表4)。これを受けて、長期の資金調達金利が低下したことで、企業の長期資金需要や家計の住宅ローン資金需要が刺激されました。このように、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」は幅広い借り入れ主体に恩恵を与えています。その中でも、新しい動きが目立っているのが社債の発行市場です。企業による満期の長い社債の発行、たとえば20年満期といった超長期債などの発行が顕著に増加しています。

既に複数の中央銀行によってマイナス金利政策が効果的に実施されていることから明らかなように、名目金利のゼロ下限制約というものは、実務上は、もはや動かしがたい制約条件という訳ではなくなっています。マイナス金利は、金融機関間の競争と短期金融市場における裁定行動を通じて、新たな金融取引に波及しています。もちろん、ゼロ制約が取り除かれたからといって、中央銀行が幾らでも望み通りのマイナスの水準に金利を引き下げられることを意味している訳ではありません。ゼロ制約とは別の制約——この制約水準は、現金の保有コストと密接な関係を持つものです——が存在すると考えるのが自然です。ただし、現在の日本のマイナス金利水準である−0.1%は、そうした新たな下限制約からは、まだかなりの距離があると考えています。そのような留保点を考慮したうえでも、やはり、マイナス金利政策という新しい実践的な政策手段を取り入れたことによって、中央銀行は様々な負のショックへの対応において、より大きな自由度を獲得したということができます。

「量的・質的金融緩和」へのマイナス金利付加によるインパクト

日本における「量的・質的金融緩和」の経験は、インフレ予想の高まりによって実質金利が大幅に低下したことを示しています。一方、名目の国債金利については、マイナス金利政策の導入までは、さほど大きく低下はしなかったという見方もできます。これは、3年前に「量的・質的金融緩和」が開始された時点で既に名目金利はかなり低い水準にあったということも影響しています。では、なぜ、「量的・質的金融緩和」にマイナス金利を付加しただけで、イールドカーブ全体にわたって目立って大きな反応が生じたのでしょうか。「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入によって、民間金融機関が中央銀行に保有する当座預金の限界的な付利金利が、+10bpsから−10bpsに20bps引き下げられました。その結果としてのより長い期間の金利への波及効果は、欧州諸国の経験に照らしても、かなり大きなものとなりました。ここで自然に生じる疑問は、何が「乗数(multipliers)」の違いを生むのか、ということです。ここでいう「乗数」とは、当座預金金利の1単位当たりの変化に対する長めの金利の変化幅を意味しています。

この問いに対して、現時点ではまだ答えはありません。仮想的には、乗数はもっと小さいケースもあり得るほか、マイナスになることも考えられます。実際、マイナス金利政策の導入に伴い、長期的なインフレ予想が高まることを反映して、長めの金利が上昇すれば、乗数はマイナスとなります。しかし、乗数がマイナスになるという事態は、日本の場合でも多くの欧州諸国のマイナス金利政策の事例においても発生しませんでした。逆に各国で共通に観察された事象は、イールドカーブのブル・フラット化です。理論的には、長めの金利のタームプレミアムの低下ないし先行きの金融政策に対する見方の下振れが、そうしたブル・フラット化が起きる要因と考えられます。両者とも広範にみられたブル・フラット化を説明できることは事実ですが、仮にゼロ制約があるもとでの将来の金融政策スタンスについて着目すると、現実を上手く説明できる解釈が考えられます。すなわち、市場参加者は中央銀行の強い緩和的スタンスが長期化すると予想し、その結果、潜在金利は実際に観察された金利よりもかなり低くなっていたという状況を考えてみます。マイナス金利政策の採用は、名目金利のゼロ制約を取り払うことになるため、ゼロ制約の影響を受けない場合に成立するであろう「真の金利」が示現することになります。このような場合であれば、潜在金利と実際の金利との乖離が大きいほどマイナス金利政策の導入時の効果は大きくなります。これは実質的には、様々な期間の名目金利が、どの程度ゼロ制約によって強く制約されているか、その度合いにマイナス金利政策導入のインパクトが影響されるということを意味しています。

4.おわりに

中央銀行によるインフレ目標に対する強いコミットメントが企業や家計のインフレ予想の形成に影響を与えることは、コンセンサスになっています。したがって、コミットメントそのものが、頑健な金融政策の枠組みを確立するうえで、重要な構成要素であることに変わりありません。

先行きも日本銀行は、毎回の決定会合で、経済活動と物価に対するリスクを点検し、「物価安定の目標」の実現のために必要と判断した場合には、躊躇なく、「量」・「質」・「金利」の3つの次元で、追加的な緩和措置を講じていく方針です。「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」は非常に強力な枠組みです。そして、言うまでもなく、「量」・「質」・「金利」のいずれについても、追加緩和の余地は十分にあります。この枠組みをどう使って、2%の「物価安定の目標」を早期に実現するか、しっかりと検討し、実践していきます。

ありがとうございました。