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【講演】日本の経験と中国―金融政策と金融システム―清華大学五道口金融学院における講演の邦訳

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日本銀行副総裁 雨宮 正佳
2019年11月7日

1.はじめに

本日は、伝統ある清華大学で講演の機会を頂き、大変光栄に存じます。

日本と中国は、一衣帯水の隣国として古くから活発に交流し、現代に至るまで様々なことを学び合ってきました。ただ、知識や文化が伝わる方向は、時代によって大きく異なっていました。19世紀から20世紀にかけては、西洋流の学問や技術が、近代化に先んじた日本を経由して中国にもたらされました。一方、そこに至るまでの長い期間にわたって、日本は多くのことを中国から学んできました。実際、日本では、中国の古典や詩歌の学習が、学校教育にしっかり組み込まれています。私も、学生時代、李白や杜甫の詩、あるいは春秋や論語といった古典と格闘したことをよく覚えています。

そこで、中国の古典から、印象的な言葉をひとつご紹介したいと思います。

── 窮して困(くるし)まず、憂いて意(こころ)衰えず。

荀子にある言葉です。この書(図表1)は、中国への理解が深かった日本銀行第26代総裁の三重野康の直筆で、かつて秘書であった私に贈ってくれたものです。この言葉は本来、学問を修める態度を説いたものです。しかし、三重野はその中に、信念を持って中央銀行の責務を果たすことの重要性を見出し、「どんなに困難な局面に直面しようとも、逃げてはいけない」といつも語っていました。

ところで、三重野は、長きに亘って当時の中国人民銀行副行長でいらっしゃった劉鴻儒氏と親密な関係を築いていました(図表2)。ある時には、2人でホテルの酒を飲み尽くし、三重野には「海量先生」との綽名が付いたそうです。ご存じのように劉氏は、中国の金融体制改革の進展に多大な貢献を行ったのみならず、ここ清華大学金融学院の前身である中国人民銀行研究生部の創設と発展に尽力した方でもあります。

さて、本日は、そうした縁もある本学院で学ぶ皆さんに、中央銀行の立場から、日本の経験と教訓をお話したいと思います。

主なテーマは、金融政策と金融システムです。具体的には、金融政策面では、金融自由化の進展を受けて日本銀行が1980年代から1990年代初めにかけて実施した金融政策手段の見直しを、金融システム面では、日本が1990年代から2000年代にかけて経験したバブル経済崩壊後の金融危機への対応を取り上げます。そして最後に、日中金融協力の事例として、昨年、両国の中央銀行が締結した通貨スワップ取極をご紹介したいと思います。

2.金融政策 ── 金利手段の更なる活用に向けて ──

金融政策に関しては、金融自由化の過程の中で、日本銀行が行ってきた金融政策手段の変革について、その経験と教訓をお話ししたいと思います。

(日本の経験)

日本における銀行預金・貸出金利は、1990年代半ばまでは、日本銀行による銀行向け貸出金利──公定歩合──を基準として規制されていました。このため当時、日本銀行は公定歩合を操作することで金融政策を実施していました。しかし、高度成長期には、資金の需要が供給を上回る状況が発生していました。こうした中、公定歩合操作だけでは、旺盛な資金需要で膨らんだ貸出を抑制することは困難でした。このため、日本銀行は、1957年に銀行の貸出行動に直接働きかける手法を導入します。具体的には、日本銀行が銀行の貸出増加額を定めるものであり、これを窓口指導と呼んでいました。

これは当時、極めて有効な金融政策手段でした。しかし、1980年代後半になると、金融自由化による企業の資金調達の多様化や海外を通じた資金融通経路の拡大などを背景に、窓口指導の有効性は低下していきます。まず、企業の資金調達が銀行借入から社債発行にシフトする動きが顕著となりました(図表3)。また、銀行に比べて中央銀行の直接のコントロールが効きづらいノンバンクによる貸出も急増しています(図表4)。さらに、この間、資本取引の自由化を受けて外貨やユーロ円での貸出、いわゆるインパクト・ローンの規模も急増しました(図表5)。日本銀行は、こうした変化に対応し、窓口指導の対象範囲を拡大するなどしました。しかし、金融自由化が進む中で、金融機関の複雑な資金の流れを漏れなく管理することは現実的でなく、窓口指導の有効性は低下していきました。

このため、日本銀行は、公開市場操作を通じた市場金利の誘導による政策手段の比重を徐々に引き上げていきました。金利のコントロールは、銀行貸出に限らず、全ての金融活動に影響を与えることが出来るためです。そして窓口指導は1991年に廃止することとしました。

(中国への示唆)

中国でも、近年、金融自由化が着実に進展しています。短期金融市場や債券市場は着実に規模を拡大させています。短期金利や国債の発行・流通金利は既にそうした市場で形成されるようになっています。銀行の預金・貸出金利についても、金利設定の目安となる基準金利は今でも一定の影響を及ぼしているように見受けられますが、金利を基準金利対比で一定の範囲内に収めなくてはならないといった規制自体は既に廃止されています。金利の自由化が徐々に進展する一方、資本取引の自由化も進んだことで、海外からの資金調達や海外への資金運用についても、以前に比べれば容易になりました。

こうしたもとで、中国人民銀行は、近年、公開市場操作の役割を徐々に高めてきています。ただし、その一方で、銀行の貸出量に直接働きかける「マクロプルーデンス評価」といった指導も引き続き活用しています。中国人民銀行は、マクロプルーデンス評価を、金融政策とマクロプルーデンス政策の2つから成る金融コントロールの枠組みの重要な構成要素と位置付けています。易綱行長も、「人民銀行の金融政策は量的手段から価格的手段への移行途上にある。現時点では量的な手段も非常に重要である」旨、発言されています1

こうした中国の現状は、日本において、1980年代後半から1990年代初頭にかけて、金利自由化が徐々に進む中で、日本銀行が公開市場操作の位置付けを徐々に高めつつも、窓口指導に補完的な役割を与えていたころに相通じるものがあると考えています。そこで、金利自由化の過渡期の頃の日本銀行の経験を踏まえ、中国にとって参考になると思われる点を、3つ申し上げたいと思います。

  1. Gang Yi, "China's monetary policy framework: supporting the real economy and striking a balance between internal and external equilibrium," speech at the Tsinghua University in Beijing, December 13, 2018.

(1)金融自由化のもとでの銀行貸出への働きかけの有効性

一点目は、金融自由化に伴い、金融政策としての銀行貸出を直接コントロールする手法の有効性は、必然的に低下するという点です。

既に申し上げた通り、日本銀行の窓口指導の有効性は、企業の資金調達の多様化等を背景に、徐々に低下することとなりました。以下では、これについて私自身の経験を少しご紹介したいと思います。

私は1980年代後半、窓口指導を担当していました。当時は、いずれの銀行も貸出には極めて積極的で、実体経済の好調を背景に資金需要が如何に強いかを繰り返し強調していたことが印象に残っています。私どもは、そうした資金需要が実需なのか投機的なものであるのか、また、社債発行の増加等といった環境変化を踏まえても適正な水準なのかどうかを確認しようとしました。しかし、一件一件の貸出にまで踏み込んで完全に精査することは現実には不可能です。その一方で、銀行は、貸出増加額が一旦認められると、まるで「お墨付き」をもらったかのように許容額一杯に貸出を増加させました。そして、日本銀行が当時コントロールしていたのは貸出増加額だったため、如何に節度のある貸出姿勢を求めても、翌年の貸出実績は前年を上回ることになっていったのです。1980年代後半には、こうした過程を通じて貸出やマネーストックは高い伸びを続けました(図表6)。振り返ってみれば、私自身としては、窓口指導が信用拡大の歯止めとして十分に機能しなかっただけでなく、バブル形成の一因にもなった、と考えています。

中国でも、近年、社債発行が拡大してきているほか(図表7)、いわゆるシャドーバンキングといわれるノンバンクによる貸出も急増してきました(図表8)。また、企業等の海外子会社による債券発行を通じた海外市場での資金調達も増加しています(図表9)。こうした動きが拡大していけば、中国においても、中央銀行が銀行の貸出に直接働きかける手法の有効性が低下していく可能性については、十分に認識する必要があるかと思います。

(2)金融自由化と金融政策における金利手段の重要性

二点目は、金融政策の有効性の観点からは、金融自由化の進展に伴い金利手段の一層の活用が重要になる、という点です。

1980年代後半に窓口指導が効果を発揮しなかった理由は、企業の資金調達ルートの多様化だけではありません。当時、日本銀行は、インフレ率が低位に止まっていたうえに為替レートの円高化を警戒していたこともあり、金利の引き上げには慎重でした。1987年から1988年にかけて、日本銀行は窓口指導において「節度ある融資態度」を求めるスタンスに転じ、漸次その度合いを強めていきましたが、公定歩合が据え置かれるもとで、その効果は極めて限定的なものに止まりました。

当時、金利を適切に引き上げていれば、望ましい政策効果が得られた可能性が高いと思います。金融自由化が進むもとでは、金利水準の変更は、窓口指導の影響が直接には及ばない幅広い金融活動に影響を及ぼすことができるからです。また、預金・貸出金利の自由化に伴い、銀行の貸出スタンスや企業の資金需要が、従来以上に金利水準の変化に敏感になってきたためです。日本銀行は、こうした経験を踏まえ、金融政策の重点を、金利水準の変化にシフトさせていくことになりました。ただし、その際の金利は、公定歩合ではなく、公開市場操作を通じて誘導する市場金利に変わりました。

現在、中国人民銀行は、前述のとおり銀行の貸出に直接働きかける手段も活用しながら、公開市場操作による市場金利コントロールの比重を高めつつあります。前者の手段は、金利自由化の過渡期において、金利による金融政策を補完する重要な役割があると考えますが、日本の経験も踏まえると、銀行貸出を含めた幅広い金融活動に効果を及ぼすマクロ政策という観点からは、金利手段の一段の活用が求められると思います。

この点に関して、本年8月、中国人民銀行は、銀行貸出金利の参照金利であるLPR(Loan Prime Rate)の報告行は、中国人民銀行のオペ金利を参照してレートを決めるべきであり、全ての金融機関は、LPRを基準に新規貸出金利を決めるべきであると表明しました。これにより、銀行の貸出金利は、従来以上に弾力的に変化することが期待され、金利手段の一段の活用にも繋がるのではないかと思います。

(3)金融市場整備の重要性

三点目は、金利手段による金融政策の有効性を高めるためには、金融市場整備が重要だということです。

中央銀行が短期金利誘導の政策効果を高めるためには、銀行間市場の短期金利の変化が、国債をはじめとする各種の金利に効果的に波及していく仕組みの構築が必要です。そのためには、単に各種金利を自由化するといった規制緩和に止まらず、市場の機能度を高めることにより、市場と市場の間の裁定取引を行い易い環境を整備する必要があります。

この点、日本銀行は、公開市場操作の場である短期金融市場のみならず、国債市場・先物市場等の整備にも取り組んできました(図表10)。

中国でも、各種金融市場の整備は着実に進んできていますが、日本の経験にも照らして、今後、特に重要だと思われる点を申し上げます。

まず、市場参加者の多様性を高めることです。ビジネスモデル、資産負債構造、金利観の異なる多様な市場参加者間での取引が拡大すれば、金融市場の流動性が向上します。具体的には、国内の機関投資家を育成するのみならず、外国金融機関の参入を促進することにも大きな意義があります。日本では、1980年代から債券市場等への外国金融機関の参入が進み、長短市場金利の円滑で弾力的な形成に貢献してきました。

また、金融市場の整備に当たっては、市場参加者との対話と協力が重要であるということです。金融市場の整備には、取引ルール、統計、決済システムの整備など実務的な検討も必要ですので、市場参加者のニーズや対応負担を考慮に入れる必要があります。日本銀行は、市場参加者との定例会合やテーマを定めたフォーラムなどの場を通じて、率直な意見交換を行ってきています。

こうした点については、中国でも着実に各種の取り組みが進んでいるように窺われ、大変心強く感じているところです。例えば、昨年来、金融市場の対外開放が加速していますが、今後、外国金融機関の参加が増えていけば、金融市場の流動性も大いに向上することとなるでしょう。また、中国人民銀行を始めとする関係当局も、例えば銀行による債券の取引所取引の解禁など市場流動性の向上の取り組みを始めています。引き続き、こうした努力を通じて、市場メカニズムが一段と発揮される市場環境を整備していくことを期待しています。

3.金融システム ── 銀行の秩序ある市場退出への備え ──

金融自由化は、金融機関の経営環境や行動様式にも大きな影響を及ぼします。日本では、1980年代、金融自由化を背景とした収益率の低下への危機感や競争の激化を受けて、金融機関が貸出を積極化させました。これが資産バブルの形成に繋がり、そして、バブル崩壊後、日本は、大手金融機関の破綻を含む未曽有の金融危機を経験することとなります(図表11)。

以下では、バブルの崩壊から金融危機に至るまでの経緯を振り返ってみます。

(日本の経験)

日本では、バブル崩壊後の1991年から、中小金融機関の破綻が始まりました。バブルに乗じた過剰融資、特に不動産融資の不良債権化が主な原因です。1995年には巨額の不良債権を抱えた不動産向けノンバンクの処理が大きな問題となりましたが、公的資金の投入には反発が強く、実現されませんでした。この間に、健全と思われていた金融機関の経営も徐々に悪化しました。1997~1998年には、中堅の証券会社の破綻を契機として、当時はトップクラスの大手銀行や大手証券会社も相次いで破綻するといった事態となりました。日本の金融機関の破綻件数をみると、この時期から急増しています(図表12)。

1998年2月、関連法制が整備され、ようやく銀行への公的資金の注入が可能となりました。しかし、自己申請に基づく大手金融機関への資本注入は金額として十分ではなく、大手金融機関の経営悪化が収まることはありませんでした。このため98年10月には、金融機関を一時的に国有化する制度など破綻処理を円滑に行う枠組みが整備されるとともに、資本増強のための新たな枠組みが設けられました。こうしたもとで、問題の深刻な幾つかの大手金融機関は一時国有化され、その他の大手金融機関には巨額の資本注入が実施されました。その後、2002年には不良債権の早期処理を促すプログラムが開始され、日本の金融危機はようやく収束に向かうこととなります。不良債権比率も低下を辿りました(図表13)。

この間、日本銀行は、「最後の貸し手」として必要な流動性を供給してきました。また、これ以外にも本来の中央銀行の役割を超えて、出資や劣後ローンの提供といった資本性資金の供給も行ってきました。資本性資金の供給は、公的資金の投入を含めた金融機関の破綻処理が制度化される前のやむを得ない措置でしたが、システミック・リスクの顕現化を防ぐためには必要な対応であったと思います。

(中国への示唆)

中国においても、金融機関は、現在、金融自由化や経済成長の鈍化といった環境の変化を経験しています。これに加えて、世界経済の不確実性が高まっている中、今後、経営が悪化する金融機関が増えないとは断言できません。少なくともマクロ的にみた債務水準がかなりの高水準にあることを踏まえれば、個別の金融機関の問題がシステミックな影響を及ぼし、実体経済に大きな影響を引き起こす潜在的なリスクへの備えは重要だと思われます。

以下では、そうした観点から、日本の経験で参考になると思われる点を3つ申し上げます。

(1)金融セーフティネットの周到な整備

一点目は、金融システムの安定に資する各種の制度や枠組みを、構築しておくことの必要性です。

個別の金融機関の問題が金融システム全体に波及することを防ぐためには、金融機関の破綻処理を迅速かつ円滑に行う制度に加えて、金融システム全体の健全性と信頼を維持するための様々な制度が必要です。以下では、両者を纏めて広い意味で金融セーフティネットと呼びます。

日本では、預金保険制度は1971年という比較的早い時期に創設されました。しかし、その他の重要な金融セーフティネットは、バブルの崩壊後、本格的に金融システム不安と対峙する中で、遅ればせながら整備されていきました。主なものとしては、金融機関の破綻処理制度のほか、不良債権の情報開示制度、不良債権の適切な処理を行う会計制度、問題のある銀行を早期に発見して是正を促す制度などが挙げられます(図表14)。

もっとも、日本の場合、金融機関の破綻や金融危機に対応しながら金融セーフティネットの構築に取り組まざるを得なかった結果、金融システムの安定を取り戻すまでに長い時間を要しました。とりわけ当時の日本では、金融危機に対する公的資金の活用について、法的な枠組みがなかったうえに当初は反対論も根強く、実現までの間に金融機関の経営は更に悪化することとなりました。

中国でも、預金保険制度は既に2015年に創設されていますが、金融システムが健全なうちに、金融セーフティネットをしっかりと整備しておくことは重要です。

例えば、中国では本年、金融機関に対して永久債発行を通じた資本増強を促進する措置が導入されました。現在は、グローバル金融危機の経験も踏まえ、公的資金の活用ではなく、金融機関が自らの規模に応じた十分な資本を予め用意しておく考え方が主流となっていますから、これはそうした方向にも沿った措置と言えます。もっとも、資本増強の実効性を確保するためには──公的資金か民間資金かを問わず──、金融機関が自らの財務状況を正確に把握し、必要な資金の調達に主体的に取り組むことが前提です。日本では、金融機関が、当初、公的資金による資本注入額を過少に申請したため、早い段階で十分な資本増強が出来なかったという経験もあります。金融機関の資本増強を効果的に行うためには、不良債権のより精緻な把握や情報開示の強化を進めていくことも有益な取り組みであると思います。

(2)「銀行不倒神話」からの脱却

二点目は、一般の事業会社と同様、個別の金融機関が破綻することもあるけれど、それでも金融システム全体の安定性は確保可能だという認識を、社会に根付かせることの重要性です。

「銀行は何があっても救済される」という強固な期待が社会に形成されてしまうと、預金者や銀行のモラル・ハザードを招き、金融システム全体のリスクを却って蓄積させることになりかねません。

今から思えば、かつての日本には、銀行破綻の可能性が現実のものとして認識されない「銀行不倒神話」が存在していました。実際、預金保険はバブル崩壊後の1991年まで、制度創設から実に20年間、一度も発動されることはありませんでした。

実は、日本は、1920年代に金融機関の連鎖破綻による深刻な金融恐慌を経験しています。そうした教訓もあって、日本の金融当局は、戦後、経営体力が弱い金融機関であっても破綻しないよう、業務や金利面での競争を厳しく規制する「護送船団方式」と呼ばれる金融行政を行ってきました。邦銀は破綻しないという「銀行不倒神話」は、こうした行政スタイルと金融当局への信頼感を背景に形成されてきたとも言えるのです。これに加えて、地価は下がらないという「土地神話」にも支えられ、バブル期に経営を積極化させていた邦銀が破綻することはなく、「銀行不倒神話」は存在し続けました。

これらの2つの「神話」が崩壊に至るには、バブル崩壊とその後の金融危機を待たなくてはなりませんでした。しかし、その展開は余りにも急であり、相次ぐ銀行破綻や信用収縮が日本経済に与えた影響は極めて深刻なものでした。

中国に「銀行不倒神話」があるとすれば、平時から決してそうではないことを啓蒙することが重要です。同時に、個々の金融機関が破綻することはあっても、金融システム全体の安定性は確保される、という信頼感の形成も重要です。この点、例えば、幅広い層に対して、預金保険の仕組みなども含めた金融教育を強化することも考えられるでしょう。

中国では、海南発展銀行が1998年に破綻して以降、長らく銀行破綻は発生していませんでしたが、本年5月に包商銀行が一時国有化されてからは、大手国有銀行による都市商業銀行の買収もみられ始めています。こうした事例が積み重なっていけば、社会の認識も変わっていくのではないでしょうか。

(3)金融市場の反応に対する深慮

三点目は、金融システムの安定や健全性強化に向けた取り組みを行う際には、これに対する金融市場の反応にも留意せねばならないという点です。

金融機関の破綻処理や巨額の不良債権処理、金融システム改革などは、本来、金融システムを守り、強化するために行うものです。しかし、これらの取り組みが却って金融市場の強い反応を招き、そうした取り組みに影響を及ぼすことがあります。ここでは、日本の経験から2つの事例をご紹介しましょう。

1つ目は、1997年、三洋証券が銀行間市場でデフォルトを起こした事例です。三洋証券は中堅クラスの証券会社であり、預金は取り扱っておらず、デフォルト金額も比較的小さいものでした。しかし、その影響は極めて大きなものでした。銀行間市場では、戦後初のデフォルトを目の当たりにして疑心暗鬼が広がりました。このため、資金の放出が急速に絞り込まれる過度の信用収縮が発生しました。これが、大手金融機関の相次ぐ破綻という金融危機の導火線に火をつけたイベントとなりました。

2つ目は、大手金融機関が相次いで破綻した1997~98年、邦銀がドル資金調達市場でジャパン・プレミアムと呼ばれた上乗せ金利を要求された事例です。当時、政府は、「日本版ビッグバン」の下で金融市場の改革開放を推進するとともに、痛みを伴う金融機関の不良債権の速やかな処理を打ち出しました。しかし、市場では、金融機関が更なる競争激化と不良債権処理の痛みに耐えられるのかとの懸念が強く、バランスシートが健全な先も含め、邦銀に最大100bpのプレミアムが課され、経営の大きな重しとなりました。幸い、実際にはそうはなりませんでしたが、日本発の金融危機が海外に波及することが一部で懸念されていたのです。

これらの経験は、金融市場は時に金融システムに対する不安から強い反応を示すことがあり、それ自体が結果として金融システムの不安定性を増幅したり、金融システム改革を難しくしたりしかねないということを示しています。

中国では現在、先ほども触れたように問題のある金融機関の処理が徐々にみられ始めています。また、金融システムの健全性を一段と強化するための「金融の供給側改革」も実行に移され始めました。いずれも正しい方向であると思います。ただし、金融機関の破綻処理や金融システム改革を進めていく過程では、金融市場の反応を注意深く観察するとともに、市場との十分な対話を行うなど適切な対応を採ることが重要です。

4.おわりに

これまで、中央銀行の視点から、金融政策と金融システム安定に関する日本の経験と教訓をお話ししてきました。最後に、日中の学び合いと協力の重要性についてお話ししたいと思います。

中国では、現在、「高度経済成長から新常態への転換」、「金融自由化」、「社会の少子高齢化」が同時進行しています。日本は、既にこのいずれも経験してきています。その一方、「デジタル革命」など両国が同時に経験している新たな変化もあります。特に中国におけるデジタル経済の発展には目を見張るものがあり、日本でも多くの企業等が注目しています。日中が学び合い、協力することは、今後ますます重要になっていくでしょう。冒頭、日中の「学び」の方向が、時代によって異なっていたということを申し述べました。そうした過去の時代と比べると、今こそ、お互いがそれぞれの経験や知見を双方向で学びあう時代が到来したように思います。

そして、日中両国の金融経済面の結びつきが強まる中で、両国の中央銀行が共通の課題に対して協力する機会も増えてきています。1つの事例をご紹介します。

2018年10月、日本銀行と中国人民銀行は、人民元および日本円を相互に融通するための為替スワップ取極を締結しました(図表15)。引出限度額は、日本銀行において2,000億人民元、中国人民銀行において3.4兆円となっています。これにより、日本銀行からみれば、邦銀の人民元決済に不測の支障が生じ、日本の金融システムの安定確保のために必要と判断する場合には、本スワップ取極を活用して、人民元の流動性供給を行うことが出来るようになります。同様に、中国人民銀行は、円の流動性供給を行うことが出来るようになります。本取極は、両国の信用秩序を維持し、経済発展のための経済金融活動を下支えする重要な取り組みであると考えています。

最後に、再び荀子を取り上げて、私のお話を締めくくります。冒頭、ご紹介した荀子にある言葉は、こう続きます(図表16)。

── 禍福(かふく)終始を知りて、惑わざるが為なり。

「学問の目的は、何が災いで何が福か、物事はどう始まりどう終わるのかを知って、迷わないようにすることである」という意味です。この不確実性の高い世界にあって、日中両国がともに学び合い、協力を深化させていくことの意義を感じる言葉ではないでしょうか。

本日はご清聴ありがとうございました。