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【講演】新型コロナウイルス感染症の世界経済への影響と課題―アジアの視点から―全米企業エコノミスト協会第62回年次総会における講演の邦訳

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2020年10月7日

1.はじめに

日本銀行の黒田です。本日は、全米企業エコノミスト協会の第62回年次総会にお招き頂き、誠に光栄に存じます。

新型コロナウイルス感染症の大流行は、世界経済に甚大な影響を与えています。この経済的ショックに対処するべく、世界中の人々が協調して懸命な努力を続けています。同時に、今回の危機を乗り越え、その経験を将来の成長につなげていくための取り組みも、世界中で進められています。

今回の年次総会は、「グローバル・リセット」とのテーマで、感染症の経済やビジネス、政策への影響について、現状だけでなく、中長期的な視点でも議論されると伺っています。本日は、こうした観点から、感染症の世界経済への影響や中長期的な課題について、私の財務官やアジア開発銀行総裁、日本銀行総裁としての経験も踏まえ、アジア経済に焦点を当ててお話したいと思います。この危機を乗り越え、世界経済を成長軌道に戻していくためのヒントを、皆さまと一緒に考えていきたいと思います。

2.世界経済とアジア経済の現状

新型コロナウイルス感染症の大流行は、世界中の経済活動を抑制しています。本年4~6月期の経済成長率は、多くの国で、大幅なマイナスとなりました。その後は、経済活動が段階的に再開されるもとで持ち直しつつありますが、改善ペースは緩やかなものにとどまっています。今なお、世界的な感染拡大に歯止めがかかっておらず、多くの人々が困難な状況にあります。本格的な回復までの道のりは、まだ長いと言わざるを得ません。

アジア経済も、厳しい状況が続いています。先月公表されたアジア開発銀行の最新の経済見通しによると、日本などを除くアジア新興国の本年の成長率は、約60年振りのマイナス成長となる見込みです。感染症の大流行は、アジア経済に対して、(1)世界経済の落ち込みによる輸出の減少、(2)入国制限や渡航自粛によるインバウンド需要の減少、(3)営業制限や外出自粛等による国内個人消費の減少、の3つの経路を通じて影響を及ぼしており、こうした域内外の需要の減少が、企業収益の悪化や雇用者所得、設備投資の減少をもたらしています。また、域内の国毎の差異が大きく、感染症拡大の状況や産業構造の違いによって、あるいは、財政余地の大小によっても、大きな差異が生まれていることも特徴です。

もっとも、アジア経済の落ち込みは、他地域と比べれば小幅にとどまっているとも言えます。この要因の1つには、感染症の拡大が、一部の国を除いて、相対的に落ち着いていることがあります。また、別の要因として、アジア経済でウェイトの高いIT関連財が、世界的なオンラインサービスの需要拡大などを背景に、比較的底堅く推移していることも指摘されます。

資本フロー面では、当初、大幅な資本流出に見舞われた国もありました。しかし、その後は、アジア金融市場全体として、落ち着きを取り戻しており、1990年代のアジア通貨危機や2000年代後半のグローバル金融危機と比べても、資本フロー面の影響は相対的に軽微です。これは、感染拡大前にアジア各国で外貨準備の積立てなどショックに対する頑健性が高められていたこと、感染拡大後に各国で迅速かつ積極的な財政・金融政策が発動されたこと、そして、域内・国際連携による支援の枠組みが用意されて強化されてきたこと、によるものと指摘できます。

3.アジア経済の役割と課題

(1)アジア経済の原動力

振り返ってみますと、アジア経済は、ここ数十年の世界経済の成長を牽引してきました。その原動力として、私はかねてより3つの点を指摘しています。すなわち、第一に、域内のサプライチェーン網の高度化で、完成品のみならず素材や中間財を含めた幅広い裾野でのネットワーク化の進展です。第二は、域内外との積極的なFTA締結を通じて貿易の自由化が進展したこと、第三は、生産・貿易活動の拡大に伴う所得の増加が内需の自律的な拡大をもたらしたことです。そして、これらが相互に作用し、「生産拠点としてのアジア(ファクトリー・アジア)」と「消費地としてのアジア(コンシューマー・アジア)」としての成長をもたらしました。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大は、こうした原動力の「死角」を明らかにしました。域内のサプライチェーン網は、各国の外出制限や営業・生産活動の停止といった厳格な公衆衛生上の措置により、寸断されました。また、域内外の貿易量は大幅に減少し、旅行・観光関連業の需要も蒸発しました。内需についても、多くの国で雇用・所得環境が悪化し、低迷しています。

先ず危機からの脱却のためにすべきことは、感染症の封じ込めと経済活動の両立です。今まさに苦しんでいる人々や企業への支援も欠かせません。そのうえで、こうした時だからこそ、危機を乗り越えた先を展望して、再び起こり得るショックに備えるべく、また、持続的な経済成長を実現するべく、歩みを続けることも重要です。この点、アジア経済にとっては、先ほどお話した「ファクトリー・アジア」と「コンシューマー・アジア」としての役割を強化していくことが重要である点に、何ら変わりはないと考えています。

(2)強靭性と敏捷性

ご承知のとおり、グローバル金融危機からの世界経済の回復には、アジア経済の成長が貢献しました。アジア経済のGDPは、2008年時点で世界全体の約30%でしたが、2019年時点では約40%に上昇しています。今回の世界経済の落ち込みからの回復においても、アジア経済への期待が高まるのは当然だと思います。

それでは、アジア経済が成長力を取り戻すためには、何が必要でしょうか。最近の議論では、危機に対しても揺るがない「強靭性(レジリエンス)」と、急速な環境変化に機敏に対応し進化する「敏捷性(アジリティ)」の重要性が指摘されています1。以下では、この2つを切り口として、アジア企業の取り組みをご紹介します。

  1. 例えば、Pulakos, Elaine, and Robert B. (Rob) Kaiser, "To Build an Agile Team, Commit to Organizational Stability," Harvard Business Review, April 7, 2020, https://hbr.org/2020/04/to-build-an-agile-team-commit-to-organizational-stability; "Joint Media Statement of the 8th EAS Economic Ministers' Meeting," August 28, 2020, https://asean.org/storage/2020/08/JMS-of-the-8th-EAS-EMM.pdf; ASEAN+3 Macroeconomic Research Office (AMRO); "Now What? Post-Pandemic Policy Considerations," AMRO Policy Perspectives, PP/20-01, July 2020, https://www.amro-asia.org/wp-content/uploads/2020/08/20200720_AMRO-Policy_Perspectives_Post-Pandemic-Policy_Final.pdf.

ファクトリー・アジア

今回の感染症は、アジアのサプライチェーン網の脆弱性を広く認識させる契機となりました。これは、ビジネスの現場で、供給網が遮断され、生産活動が低下したことに表れています。

その後、アジア企業では、サプライチェーンの見直しが始まっています。これは、決して自国回帰の一辺倒の動きではなく、むしろ、生産拠点や調達先を多くの国や地域に分散・多様化し、あるいは複線化することで、大きなショックへの「強靭性」を高めようとする取り組みです。また、サプライチェーンの管理体制を見直し、各拠点の調達・生産・供給状況を可視化するなど、外部環境の変化への「敏捷性」を高める取り組みもみられます。

もともとアジアは、自然災害の影響を受けやすい地域でもあり、こうしたサプライチェーン網の強化に向けた取り組みを進めてきた企業もあります。実際、そうした企業は、今回の危機からも早期に復旧できたと聞いています。今回の危機の経験を経て、様々な形でのサプライチェーン網の強化が進んでいくものとみられます。

コンシューマー・アジア

一方、感染症の拡大は、私たちの生活にも、大きな変化をもたらしました。財やサービスの需要も変化しています。アジアでも多くの企業が、困難な中にありながら、新たな需要を取り込むべく事業を拡充・強化し、事業の入れ替えを進めています。デジタル・ネットワークの拡充や、医療・教育サービスのオンライン化、Eコマースの拡大など、外部環境や需要の変化に即応するための「敏捷性」が、従来よりも重要性を増していると言えるでしょう。

事業の見直しは、長い目でみた企業の生産性を高める方向に作用します。アジアでは、長年、サービス産業の生産性の低さが指摘されてきました2。しかし近年では、例えば、Eコマース市場が他地域を突出するスピードで拡大するなど、環境は大きく変わっています3。新たな需要の取り込みや投資の拡大は、賃金を上昇させ、コンシューマー・アジアの市場の「強靭性」を高めていくでしょう。

  1. 2例えば、Asian Development Bank, "Developing the Service Sector as an Engine of Growth for Asia," October 2013, https://www.adb.org/sites/default/files/publication/31114/developing-service-sector-engine-growth-asia.pdf; Kim, Jungsuk, and Jacob Wood, "Service Sector Development in Asia: an Important Instrument of Growth," Asian-Pacific Economic Literature, Volume 34, Issue 1, May 2020, https://onlinelibrary.wiley.com/doi/epdf/10.1111/apel.12282.
  2. 3Asian Development Bank, "Embracing the E-commerce Revolution in Asia and the Pacific," June 2018, https://www.adb.org/sites/default/files/publication/430401/embracing-e-commerce-revolution.pdf.

(3)持続的な経済成長

より長期的な視点からは、「持続的な経済成長(sustainable growth)」のための課題、すなわち、包摂的(inclusive)、グリーン(green)、デジタル(digital)な経済を実現するための課題についての取り組みも重要です。私は、これらの実現には大きな労力やコストがかかる一方、それに見合うリターンも期待できると考えています。別の言い方をすれば、こうした課題の実現と経済成長の実現は、決してトレード・オフの関係ではなく、長期的な経済の成長のために相互に補完的であるということです。

包摂的な経済

まず包摂的な経済について、アジアの新興国や発展途上国の多くは、社会保障が十分でなく、それが今回の感染症への対応を困難にし、経済格差を拡大しました。医療体制や社会保障の充実、教育といった人的資本への投資を効果的に行うことで、より包摂的な経済が実現されれば、貧困層の減少にも繋がるでしょう。金融面でも、金融包摂の進展は、格差の是正に加えて、経済成長を促進する観点からも重要性を増していると言えます。

グリーンな経済

気候変動問題については、アジアには、自然災害や海面上昇などの変動が社会・経済に大きな影響をもたらす地域があり4、従来から、環境規制の制定や環境に配慮したインフラ建設などは、経済発展と環境保全の両立のための重要な課題とされてきました。今回の感染拡大は、気候変動問題への関心を一段と高めています。グリーンな経済の実現は、先進国と新興国の共通の課題であり、社会的な要請に応え、中長期的な経済成長に繋げるためにも、前向きに取り組むべきことだと考えます。

  1. 4McKinsey Global Institute, "Climate risk and response in Asia," August 2020, https://www.mckinsey.com/~/media/McKinsey/Featured%20Insights/Asia%20Pacific/Climate%20risk%20and%20response%20in%20Asia%20Research%20preview/Climate-risk-and-response-in-Asia-Future-of-Asia-research-preview-v3.pdf.

デジタライゼーション

デジタライゼーションの進展は、情報や財、サービスへのアクセスが十分でなかった人々に、特に恩恵をもたらします。金融面でも、フィンテックの進展は、金融包摂の進展に資するだけでなく、投資の拡大や需要の創造などを通じて、経済を刺激します。アジアは、2018年までの20年間におけるフィンテック関連特許の6割以上を占めるなど5、フィンテック分野の潜在力は大きいとされています。今回の感染拡大により、デジタライゼーションの進展は加速しました。今後、官民が協力し、ハード・ソフト両面で環境整備に取り組むことが、益々重要になっていると言えるでしょう。

  1. 5 Asian Development Bank, "Harnessing Technology for More Inclusive and Sustainable Finance in Asia and the Pacific," 2018, https://www.adb.org/sites/default/files/publication/456936/technology-finance-asia-pacific.pdf.

(4)域内・国際連携

最後に、アジアの域内連携を紹介します。アジアでは、域内の政策協力が、ASEANやASEAN+3など様々なプラットフォームを通じて実現され、APECなどアジアの枠を越えた連携も進められてきました。金融面でも、日中韓とASEAN10か国による地域金融取極(Regional Financing Arrangements、RFA)の「チェンマイ・イニシアティブ」が、域内の金融市場の安定に貢献し、その実効性を高めるための整備が進んでいます。中央銀行間でも、EMEAPやSEACENといった枠組みが有効に機能しました。

今回の感染症のようなショックへの対応には、各国の協調が欠かせません。先に述べた気候変動問題など、外部効果の大きい課題への対応も同様です。域内・国際連携の重要性は、今後も一段と高まっていくでしょう。

4.おわりに

本日は、新型コロナウイルス感染症の世界経済への影響と課題について、特にアジアに焦点を当てて、お話をしてきました。アジアが直面する課題には、世界全体の課題として共通するものが多くあります。それらは多岐に亘り、適切に対応していくことは決して容易ではありません。しかし、こうした課題を乗り越え、その経験を前向きに活かしていけば、世界経済は持続的でバランスのとれた発展を続けることができるでしょう。

私のスピーチを締め括るに際して、日本に伝わる「不易流行」という言葉をご紹介したいと思います。これは、変化しない本質を失わず、しかしその中に新しい変化を取り入れていくことの重要性を指摘した言葉です。今回の危機は、我々の考え方や行動に様々な問いを投げかけました。例えば、世界経済の成長の前提であったグローバリゼーションに対する疑問や巻き戻しの議論も生じています。しかし、グローバリゼーションは、形や構図を変えつつも、その重要性について基本的な考え方を変えることはないでしょう。また、本日私は、「バーチャルな世界」で世界中の皆さまとご一緒することができました。一方で、face-to-faceのコミュニケーションの意義が失われたわけではありません。我々は今、守るべきものと変えるべきものを見極めていくこと、そのことの重要性が問われているのではないでしょうか。

それでは近い将来、皆さまと「リアルな世界」でお会いできることを楽しみにしています。

ご清聴ありがとうございました。