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【講演】 金融政策の考え方─「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて─ きさらぎ会における講演

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2022年6月6日

1.はじめに

日本銀行の黒田でございます。本日は、きさらぎ会でお話する機会を頂き、光栄に存じます。

前回この席にお招き頂いたのは、昨年3月でした。当時は、新型コロナウイルス感染症の影響の長期化が意識される中、日本銀行が、金融緩和の持続性と機動性を高めるべく、「点検」を行った時期でした。その後、世界的に経済活動の再開が進むもとで、ロシアのウクライナ侵攻もあって、内外の物価情勢は大きく変化しました。とくに、欧米では、多くの専門家の想定をはるかに上回るペースでインフレが加速し、このところ米国FRBを筆頭に金融緩和を縮小する動きが本格化しています。他方、わが国の消費者物価も、欧米と比べ低位ではありますが、この4月には2008年夏以来の前年比2%台の上昇率となりました。こうした中にあっても、日本銀行は、欧米の中央銀行と異なり、強力な金融緩和を粘り強く続けていく姿勢を明確にしています。

そこで、本日は、欧米との比較も交えながら、わが国で金融緩和の継続がなぜ必要なのかをお話します。そのうえで、日本銀行の目指す2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けた道筋について、私自身の考えを申し述べたいと思います。

2.当面の金融政策運営の考え方

(1)経済・物価情勢を踏まえた金融政策運営の基本的な考え方

最初に、当面の金融政策運営に関する基本的な考え方について、お話します。日本銀行が強力な金融緩和を粘り強く続ける必要があると考える理由は、大きく分けて3点あります。

第1に、わが国経済は、依然として感染症による落ち込みからの回復途上にあります。わが国の実質GDPは、米国やユーロ圏と異なり、今なお感染症拡大前の水準を回復できていません(図表1)。本年1から3月も、半導体や部品などの供給制約が長引く中で、オミクロン株の流行によるサービス消費への下押し圧力が強まったことから、前期比年率-1.0%のマイナス成長となりました。この結果、1から3月のGDPの水準を、感染症拡大前の2019年と比較しますと、米国が+3.7%、ユーロ圏が+0.6%それぞれ上回っているのに対し、わが国は逆に-2.7%下回っています。需要項目別にみますと、わが国では、米国やユーロ圏と比べ、個人消費や設備投資といった国内民間需要の回復が弱めとなっています。こうした状況における金融政策の最も重要な役割は、緩和的な金融環境を維持することで、国内民間需要の本格回復をしっかりと後押ししていくことです。

第2に、わが国は、資源輸入国であるため、最近の国際的な資源価格の上昇により、海外への所得流出という下押し圧力を受けています(図表2)。一方、米国では、シェール革命の影響もあって、多くの資源が自国で産出されていますので、資源価格の上昇は、必ずしも海外への所得流出に直結しません。こうした交易条件の変化も考慮した所得の概念として、「実質GNI」という指標があります。これは、実質GDPに、海外からの投資収益等のネット受取額を加え、さらに資源価格等の変動に伴う交易条件の変化による所得の増減(交易利得)も足し上げた指標です。2021年度のわが国の実質GDPの成長率は、経済活動の再開に伴う支出の増加を反映して+2.1%となりましたが、実質GNIでみた成長率は、資源価格の上昇による交易条件の悪化を受けて+0.6%にとどまりました。なお、わが国の交易条件悪化の主因は、あくまでもドル建ての資源価格の上昇であって、為替円安ではありません。ドル建ての資源価格の上昇は、輸入物価だけを上昇させますが、為替円安は、輸出物価と輸入物価をともに押し上げるため、交易条件に対し概ねニュートラルです。いずれにせよ、資源価格上昇により所得面から下押し圧力を受けている状況では、金融緩和の継続によって、そのマイナスの影響を和らげる必要があります。

第3に、2%の「物価安定の目標」は、持続的・安定的に達成される必要があります。4月の生鮮食品を除く消費者物価は、概ね事前に予想していたとおり、前年比+2.1%と表面的には2%に到達しました(図表3)。これは、昨年実施された携帯電話通信料引き下げの影響の多くが剥落するもとで、エネルギー価格が大幅に上昇したことが主因です。一方、生鮮食品とエネルギーを除いたベースでみれば、消費者物価の上昇率は+0.8%となっており、必ずしも、エネルギー以外の幅広い品目で物価の上昇が明確になっている訳ではありません。日本銀行の見通しでは、生鮮食品を除く消費者物価は、2022年度こそ+1.9%の伸びとなりますが、エネルギー価格の押し上げ寄与の剥落が見込まれる2023年度には+1.1%までプラス幅を縮小する見込みです。もとより、2%の「物価安定の目標」の実現とは、消費者物価の上昇率が、エネルギー価格の上昇などにより一時的に2%に達することではなく、景気の変動などを均してみて、平均的に2%になることです。そのためには、現在の強力な金融緩和を継続することで、企業収益や雇用・賃金が増加し、その中で物価の基調も緩やかに上昇する好循環を形成する必要があります。2%目標の実現に向けた賃金上昇の重要性については、後ほど詳しく説明したいと思います。

(2)イールドカーブ・コントロールのもとでの金融緩和

以上申し上げた3つの理由から、日本銀行は、強力な金融緩和を推進しています。その具体的な手段として、日本銀行は、イールドカーブ・コントロールの枠組みのもと、短期金利に加え、長期金利にも明示的な操作目標を設定しています。直近4月の決定会合では、短期政策金利を-0.1%、10年物国債金利の操作目標を「ゼロ%程度」とする従来の金融市場調節方針を維持しました。また、昨年3月の「点検」では、市場機能を一定程度維持しつつ、金融緩和効果を損なわないよう金利水準をコントロールする観点から、長期金利の変動幅は「上下に±0.25%程度」が適当であると明確化しました。こうした方針のもとで、日本銀行は、現在、10年物国債金利が「ゼロ%±0.25%」のレンジ内で推移するよう、必要な金額の長期国債の買入れを行っています。

また、4月の決定会合では、金利変動幅の上限をしっかり画するとともに、金融緩和スタンスを明確に示す観点から、10年物国債金利について0.25%の利回りでの「指値オペ」を、原則として毎営業日、実施することも決定しました。これは、市場の一部では、これまで指値オペの実施の有無から、日本銀行の先行きの政策スタンスを推し量ろうとする動きもみられていましたが、指値オペを基本的に毎営業日実施することを予めアナウンスすることにより、市場の安定性が確保されるのではないか、という考え方によるものです。

実際、本年入り後、欧米の長期金利が上昇傾向を続ける中にあっても、わが国の長期金利は、上限の0.25%を上回ることなく、調節方針と整合的な水準で推移しています(図表4)。日本銀行のイールドカーブ・コントロールでは、長期金利を操作目標としているため、国債の買入れ額は内生的に決まります。日本銀行は、最近、指値オペや国債買入れの増額を実施していますが、従来と比べ、トータルでみた国債の買入れ額が大きく増加した訳ではありません。また、指値オペは、毎営業日実施するようになった5月以降、応札がゼロの状態が続いています。これは、過去に行った国債買入れを背景とする「ストック効果」が働いていることに加え、長期金利が0.25%を上回った場合には、日本銀行が指値オペにより無制限に国債を買い入れるという「アナウンスメント効果」も、市場参加者の予想形成に大きな影響を与えているため、と考えています。いずれにせよ、イールドカーブ・コントロールのもとで、長期金利が低位で安定的に推移していることは、CP・社債・銀行貸出などの資金調達環境を緩和的な状態に維持し、わが国の経済活動をしっかりとサポートしていると考えています。

3.2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて

ここからは、2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的な形で実現するための具体的な道筋について、お話したいと思います。この点に関しては、日本銀行が3月末に開催した、「コロナ禍における物価動向を巡る諸問題」と題するワークショップでの議論が参考になります1。本ワークショップでは、コロナ禍で浮き彫りになった日米欧の物価動向の違いに関する日本銀行スタッフの分析を題材に、なぜ日本だけ低インフレが続いているのかについて、わが国を代表する経済学者にもご参加頂き、活発な議論を行いました。そこでの議論も踏まえますと、日本で2%目標を持続的・安定的な形で実現するためには、賃金が明確に上昇し、サービス価格が長年のゼロ・インフレから脱却できるかどうかが、重要なカギを握ると考えています。以下では、この点を詳しく説明します。

  1. 1詳しくは、以下のワークショップ開会挨拶や調査論文を参照してください。
    雨宮正佳(2022)「コロナショックと物価変動(『コロナ禍における物価動向を巡る諸問題』に関するワークショップにおける開会挨拶)」2022年3月29日。https://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2022/ko220329b.htm/.
    日本銀行企画局(2022)「『コロナ禍における物価動向を巡る諸問題』に関するワークショップ第1回『わが国の物価変動の特徴点』の模様」日本銀行調査論文、2022年5月。https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2022/ron220523a.htm/.

(1)コロナ禍における物価変動:日米欧の違い

まず、コロナ禍のもとでの日米欧の物価変動を概観するところから始めます(前掲図表3)。米国の消費者物価の上昇率は、足もとでは8%台、エネルギーを除くベースでも6%台となるなど、インフレの高進が際立っています。政策対応面では、昨年夏場までのFRBは、「物価の上昇は、一時的なものと考えられるため、賃金やインフレ予想への2次的波及がみられない限り、これを許容し、金融緩和を続けて景気のサポートに専念する」という考え方をとっていました2。実際、その時点では、インフレの主因は、エネルギーに加え、供給制約の影響を強く受ける自動車など、コストプッシュ的な要素が目立っていました。ところが、その後の米国のインフレ率は、当初の想定とは異なり、大幅に加速しました。その背景として、第1に、感染症への警戒感などから、労働参加率が十分に回復しなかったこと、第2に、供給要因だけでなく、力強い成長が続く中で、総需要の強さが物価全般を押し上げていること、が指摘できます。こうした中、最近では、求人倍率が2倍程度と過去にない高水準となるなど、労働需給のタイト化が進んでいます。インフレ率の高まりを受けて、労働者は賃金の要求水準を引き上げてきており、このことが、家賃も含めたサービス価格の更なる上昇に繋がっています。このため、FRBは、賃金・物価のスパイラル的上昇を抑制する観点から、本年3月に0.25%、5月には0.5%の利上げを実施し、先行きも継続的な利上げが必要との情報発信を行っています。

こうしたFRBの政策対応は、基本的には、米国の経済・物価の安定を通じて、世界経済全体の安定にも資すると考えています。もっとも、国際金融資本市場では、米国のインフレ率の高止まりと利上げペースの加速が意識されるもとで、株価等のリスク性資産価格の大幅な調整や、新興国からの資本流出などのリスクが指摘されており、今後の動向には十分な注意が必要です。

ユーロ圏の消費者物価の上昇率も、ここにきて大きく高まっています。ヘッドラインは8%台となっており、エネルギーを除くベースでも4%を上回っています。経済的・地理的に結びつきの強いウクライナの影響から、エネルギー価格は一段と上昇する一方で、景気の先行き不透明感は強まっており、ECBは、インフレの抑制か、景気の下支えか、難しいジレンマに直面しています。ECBは、これまで景気の下支えを重視し、利上げを見合わせてきましたが、足もとでは、物価上昇の賃金やインフレ予想への2次的波及もみられ始めたことから、ラガルド総裁は、7から9月の利上げ実施を示唆しています。

これに対し、日本の消費者物価は、上昇したとはいえ、足もとでも2%程度にとどまっており、欧米と比べると低い伸びとなっています。しかし、このことは、同時に、物価の上がりにくさという、日本の長年の課題を改めて浮き彫りにした面もあります。すなわち、財価格は、程度の差はあれ、欧米と同様、需給ギャップに連れて循環的な変動を示しています。一方で、サービス価格は、欧米と異なり、極めて硬直的な状態が続いており、コロナ禍でも殆ど上昇していません。

わが国で、毎年2%程度の物価上昇が実現する状態は、サービス価格の押し上げ寄与が常に2%程度あり、その前後の変化率で、財価格が循環的に変動するという姿になろうかと思います。この点、日米で消費者物価の品目別価格変動分布を比べてみますと、コロナ前の米国では、サービスを中心に、2%前後で品目間の上昇率にある程度ばらつきがみられます(図表5)。他方、日本では、価格変化率がゼロ%となっている品目が圧倒的に多くなっており、この点はコロナ禍でも大きな変化はありません。

この9年超にわたって、日本銀行が大規模な金融緩和を行ってきたにも拘わらず、2%目標を達成できなかった最大の理由は、この「ゼロ%のアンカー」、言い換えると「ゼロインフレ・ノルム」が極めて強固だったことです。米国では、2%のノルムが、あらゆる経済主体の間で共有されている訳ではなく、1%の主体も3%の主体も存在して、平均して2%になっています。一方、日本のゼロインフレ・ノルムは、皆が「値札を変えない」という、ほぼ同じ行動をとっている状態を意味しています。この日本の動かぬ物価の背景のひとつとして、経済学者の間では、「屈折需要曲線」の存在が指摘されています(図表6)3。つまり、個々の企業が直面する需要曲線は、僅かな値上げでも需要は大幅に減少する一方、若干の値下げでは需要はさほど増加しない形状となっているため、「値札を変えない」ことが、わが国企業の最適な価格設定行動となっている訳です。

  1. 2例えば、米国FRBのパウエル議長は、昨年夏のジャクソンホール会議における講演において、インフレ高進の背景に関する当時の認識や、そのもとでの金融政策のあり方について、詳しく論じています。
    Powell, J. H., 2021, "Monetary Policy in the Time of COVID," speech at "Macroeconomic Policy in an Uneven Economy," a symposium sponsored by the Federal Reserve Bank of Kansas City, Jackson Hole, Wyoming, August 27. https://www.federalreserve.gov/newsevents/speech/powell20210827a.htm.
  2. 3屈折需要曲線とわが国の低インフレの関係については、以下の論文や書籍を参照してください。
    Aoki, K., H. Ichiue, and T. Okuda, 2019, "Consumers' Price Beliefs, Central Bank Communication, and Inflation Dynamics," BOJ Working Paper Series, No. 19-E-14.
    https://www.boj.or.jp/en/research/wps_rev/wps_2019/data/wp19e14.pdf.
    渡辺努(2022)『物価とは何か』講談社。
    なお、マクロ経済学のミクロ経済学的基礎づけという観点から、屈折需要曲線に関する先駆的業績をあげたのは、根岸隆東大名誉教授です。
    Negishi, T., 1979, Microeconomic Foundations of Keynesian Macroeconomics, Amsterdam: North-Holland.

(2)賃金上昇の重要性

この状況を変えるポイントは、賃金の上昇です。すなわち、すべての企業が直面する労働コストを上昇させ、サービス価格も含め毎年値上げが行われる状況を創り出すとともに、賃金所得の増加により消費者の値上げ許容度も高めることです。そのためには、第1に、強力な金融緩和の継続によって、労働需給の引き締まった状態を長期化させること、第2に、毎年の労使交渉で決定される賃上げ率に、実績の物価上昇率の高まりが反映されていくこと、が必要です。

まず、前者の労働需給のタイト化についてです。2013年以降、日本銀行が強力な金融緩和を推進するもとで、経済活動は押し上げられ、労働需給は引き締まりを続けました。そして、感染症の拡大前の2018年頃には、有効求人倍率が1.6倍とバブル期のピークを越える水準まで上昇し、失業率は2%台前半まで低下しました(図表7)。こうした中、労働需給に敏感なパートの時給は3%程度の伸びとなるなど、企業が限界的な労働力の過不足の調整を行う「外部労働市場」では、賃金上昇圧力が高まりました。労働需給の引き締まりは、企業内部の正社員を中心とする「内部労働市場」にも波及していくことが期待されていました。わが国の内部労働市場では、正社員の長期雇用慣行が基本的に維持されており、不況期に雇用保障が行われる代償として、好況期でもスラックが残りやすく、賃上げ率も抑制される傾向があるためです。もっとも、2018年末以降、海外経済の減速が明確となり、さらに2020年入り後はコロナショックも直撃したため、労働需給は緩和傾向に転じ、正社員賃金の本格上昇には至りませんでした。先行きは、4月の「展望レポート」で示したとおり、2022年度以降、3年連続で潜在成長率を上回る成長が見込まれるもとで、「外部労働市場」だけでなく「内部労働市場」においても労働需給が引き締まり、これが賃金の本格的な上昇に繋がっていくかどうかが、ポイントになります。

次に、後者の物価上昇を反映した賃上げの実現についてです。デフレ期には、2000年代半ばの景気回復期も含めて、多くの企業は、ベースアップを見送ってきました。これに対し、2013年以降は、大規模な金融緩和により物価上昇率が緩やかに高まるもとで、ベースアップは復活し、今年度まで9年連続で実施されてきました。もっとも、この9年間の平均的なベースアップは、0.5%程度となっており、欧米と比べても、またデフレ期以前のわが国と比べても、なお低い伸びにとどまっています。このように、ベースアップが低い伸びにとどまってきた背景には、様々な要因があると考えられます。3月末のワークショップでは、ひとつの仮説として、近年の物価上昇が、平均で2%程度の定期昇給をはっきりと下回ってきたことから、個々の家計は、物価の上昇を生計費の増加として認識せず、物価への関心も持ちにくかったという仮説が提示されました。これは、最近の経済学では「合理的無関心(rational inattention)」とも呼ばれ、人々は、経済的な意思決定に際し、必要性が低いと判断した情報には無関心となりやすいという考え方です。いずれにせよ、この仮説の妥当性については、理論的・実証的に更なる検証が必要ですが、先行きは、最近の2%近い物価の上昇が、来年度以降の賃上げ率に、どの程度勘案されるようになるかが、ポイントになります。

(3)インフレ予想にみられる変化の胎動

この点、最近は、企業、家計ともに、物価観やインフレ予想に変化がみられ始めています。企業の物価観について、3月短観をみますと、3から6か月程度先の価格設定スタンスを示すとされる販売価格判断DIは、製造業では1980年初の第2次オイルショック期以来、非製造業でも1990年初のバブル末期以来の水準まで上昇しています(図表8)。さらに、企業の物価全般の見通しをみても、「1年後」ははっきりと上昇し、統計開始後のピークとなっているほか、「3年後」、「5年後」もピークに近い水準まで上昇しています。

このように、企業の価格設定スタンスが積極化している中で、日本の家計の値上げ許容度も高まってきているのは、持続的な物価上昇の実現を目指す観点からは、重要な変化と捉えることができます。この点について、東京大学の渡辺努教授は、興味深いサーベイを実施されています(図表9)。具体的には、「馴染みの店で馴染みの商品の値段が10%上がったときにどうするか」という問いに対する家計の回答について、日本も含めた5か国を対象に、定期的に調査を行っています。昨年8月の前回調査では、日本の家計の半数以上は、値上げに対し「他店に移る」と回答しており、まさに屈折需要曲線が想定するような状態でした。これは、「値上げを受け容れ、その店でそのまま買う」との回答が半数以上を占める欧米とは、大きく異なっていました。もっとも、この4月に実施した調査では、日本の回答結果に変化がみられています。すなわち、値上げに対し、「他店に移る」との回答が大きく減少し、「値上げを受け容れ、その店でそのまま買う」との回答が、欧米のように半数以上を占めるようになっているのです。

この結果自体は、相当の幅を持ってみる必要はありますが、ひとつの仮説としては、コロナ禍における行動制限下で蓄積した「強制貯蓄」が、家計の値上げ許容度の改善に繋がっている可能性があります。いずれにせよ、強制貯蓄の存在等により、日本の家計が値上げを受け容れている間に、良好なマクロ経済環境を出来るだけ維持し、これを来年度以降のベースアップを含めた賃金の本格上昇にいかに繋げていけるかが、当面のポイントであると考えています。

4.おわりに

本日は、日本銀行が現在のわが国で金融緩和が必要と考えている理由と、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けた賃金上昇の重要性について、お話しました。

わが国経済は、依然として感染症からの回復途上にあるうえ、所得面では資源価格上昇という下押し圧力も受けており、金融引締めを行う状況には全くありません。現在のイールドカーブ・コントロールを柱とする強力な金融緩和を粘り強く続けていくことで、経済活動をしっかりとサポートすることが最優先課題です。日本銀行は、海外の中央銀行と異なり、経済の安定か、物価の安定か、というトレードオフに直面していないため、金融面から総需要を刺激し続けることが十分に可能です。

日本銀行は、4月の「展望レポート」において、物価の基調に関する見通しを定量的に分かりやすく説明するため、「除く生鮮食品・エネルギー」でみた消費者物価の見通しも公表しました。これによれば、マクロ的な需給ギャップの改善やインフレ予想の高まりを背景に、2024年度には1%台半ばまで、プラス幅を高めていく姿となっています。こうした見通しが実現し、さらに安定的な2%上昇に向かっていくためには、本日お話してきたとおり、賃金と物価が、ともに相乗的に上昇していく好循環を創り出す必要があります。

日本銀行としては、賃金が上昇しやすいマクロ経済環境を提供し、足もとでみられ始めているインフレ予想の上昇や値上げ許容度の変化を、持続的な物価上昇へと繋げていくよう、揺るぎない姿勢で金融緩和を継続していく方針であることを申し上げて、本日のお話を終わらせて頂きます。

ご清聴ありがとうございました。