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【講演】気候変動と金融日本金融学会における講演

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日本銀行副総裁 雨宮 正佳
2022年11月27日

1.はじめに

日本銀行の雨宮でございます。本日は、日本金融学会でお話しする機会を頂き、ありがとうございます。

本日は、気候変動と金融についてお話しをしたいと思います。気候変動問題への対応は、国際的にも、また、国内においても重要な政策課題の一つとなっています。企業活動でも、気候変動を含むESG1(環境・社会・企業統治)への対応は、重要な経営課題です。金融についても、気候変動への対応が進んできています。金融機関が行う投融資において、気候変動対応に資するかどうかを考慮する動きが広がっています。株主に加えて、非営利組織なども含めた幅広いステークホルダーが、金融機関に対して、気候変動に関する事項を考慮することを要求する動きもみられます。

気候変動と金融については、近年、政策や実務の分野で結びつきが強まってきています。本日の私の講演では、まず、気候変動と金融に関する基本的な論点について整理した後、民間金融機関の取り組みや、日本銀行を含む世界の中央銀行の取り組みについてご説明したいと思います。そして、最後に、研究者の皆様へのお願いという気持ちもこめて、金融経済分析面での課題について述べたいと思います。

  1. 1Environment, Social and Governance

2.気候変動と金融に関する基本的論点

まず、気候変動と金融に関する基本的な論点について考えてみたいと思います。図表1をご覧ください。一つの論点は、気候変動対応において、なぜ金融が重要なのか、という点です。もう一つの論点は、金融、とりわけ金融システムに対して、気候変動がどのような影響を及ぼすか、という点です。

気候変動対応における金融の重要性

気候変動問題に対する経済学のアプローチの一つが「外部性」です。経済学では、個々の企業や家計が経済的な意思決定を行う際、自らが直面する価格をもとに意思決定を行うと想定していますが、温室効果ガスがもたらす社会的な悪影響が価格に反映されにくい結果として、社会的には過大な量の温室効果ガスが排出されてしまいます。こうした「外部性」に対する対処法としては、炭素税などの税制や脱炭素に資する投資に対する補助金の提供といった財政政策や、規制の役割が重視されてきました。もっとも、ネットゼロ社会の実現に向けては、再生可能エネルギーによる発電量を大幅に増加させるための設備投資や、イノベーションの促進のために、膨大な投資資金が必要とされます。GFANZ2は、2050年までにネットゼロを実現するためには、世界全体で125兆ドルの投資が必要との試算を公表しています。こうした膨大な投資資金を賄うには、金融機関や金融市場を通じた資金調達を活用することによって、ネットゼロ社会の実現に向けた投資を実行していくことが重要です。先ほど述べたように、株主をはじめとする様々なステークホルダーが金融機関行動において気候変動に関する事項を考慮することを要求していることに加え、金融機関自身も、脱炭素に向けた資金需要の拡大をビジネスチャンスと捉えて、前向きな取り組みを進めてきています。また、こうした膨大な資金が効率的に活用されるためにも、金融機関や金融市場における投資家の目利き力、すなわち、適切にリスクとリターンを判断し、効率的な資金の配分が行われることが不可欠です。さらに、そうした資金の用途が適切かどうかを外部のステークホルダーがしっかりと監視できる体制を構築する必要もあります。このために重要なことは、企業や金融機関のディスクロージャーを充実させていくことです。ディスクロージャーの充実は、市場からのプレッシャーによって、企業や金融機関の投融資活動に対し、規律付けを行う役割を果たします。企業や金融機関の自主的な取り組みを、ディスクロージャーという規律付けによって補強することは、気候変動問題の「外部性」を、市場メカニズムの中に「内部化」させる動きでもあると言えるでしょう。

  1. 2Glasgow Financial Alliance for Net Zero

金融システムに対する気候変動の影響

次に、気候変動が金融システムにどのような影響を及ぼすか、という点について考えてみたいと思います。気候変動が金融システムにもたらす影響について評価する際には、「物理的リスク」と「移行リスク」という2つのリスクについて考える必要があります。「物理的リスク」は、気候変動に起因する大規模災害や海面上昇といった物理的現象が企業や家計に損失をもたらすリスクを指します。「移行リスク」とは、脱炭素社会への移行に伴う政策、技術、消費者の嗜好の変化などが企業や家計に経済的影響をもたらすリスクを指します。脱炭素に向けた動きが遅れる場合、「物理的リスク」が顕在化し、自然災害の発生を契機に金融機関の融資先に損失が生じる可能性が高まります。一方、脱炭素に向けた動きが進む際に、例えば、金融機関の既存の融資先が炭素排出の多い企業であった場合、融資先企業の資産価値は劣化することになります。いずれも、金融機関の投融資の量と質を変化させ、対応次第では、金融システムに負の影響を及ぼす可能性があります。金融機関経営や金融システムの安定性という観点からも、気候変動問題への対応は、重要な要素となってきています。

3.民間金融機関の取り組み

次に、民間金融機関の取り組みについてお話ししたいと思います。先ほど述べたように、近年、民間金融機関の気候変動への取り組みは加速しています。ここでは、金融機関による国境を越えた協調・取り組みを2つご紹介します。図表2をご覧ください。一つ目の取り組みは、昨年結成された民間金融機関のグローバルな有志連合であるGFANZです。加盟金融機関は現時点で550を超え、銀行、保険会社、資産運用会社、機関投資家など多様な金融機関が参加し、セクターごとの連合における具体的な対応策が議論されています。加盟金融機関は、それぞれ、ネットゼロに向けた計画を策定し、関連する情報を公表することが義務付けられています。昨年のCOP26の際には、GFANZ参加機関合計で、今後30年間で脱炭素に向けた投融資を100兆ドル実施する方針が表明されました。先ほど述べたように、2050年までにネットゼロを実現するためには、世界全体で125兆ドルの投資が必要との試算がありますので、脱炭素に必要な投融資が民間金融機関によって十分賄われるかという観点からは、GFANZ参加機関を含めた金融機関の投融資方針の積極化や具体化が重要ということになります。そうしたもとで、トランジション・ファイナンスの重要性に対する認識も高まってきています。GFANZは、本年6月に、ネットゼロに向けた移行計画に関する文書3を公表しており、金融機関への提言・ガイダンス案の中で、「多排出資産の計画的な除却(managed phaseout)」を脱炭素化の柱の一つとして位置付け、金融面の取り組みとして、トランジション・ファイナンスの重要性を強調しています。

近年、影響力を高めているもう一つの民間金融機関の活動が、責任投資原則(PRI4)です。これは国連の提唱によって結成された機関投資家の国際的なグループですが、現在、約5,000の機関投資家が参加しています。参加機関は、投資の意思決定に、ESGの要素を勘案し、その状況を報告することが義務付けられています。これによって、機関投資家が、能動的に、投資先の企業の脱炭素に向けた動きを促すことが期待されています。

  1. 3Towards a Global Baseline for Net-zero Transition Planning, GFANZ, June 2022
  2. 4Principles for Responsible Investment

4.中央銀行の取り組み

最近の動き

ここからは、中央銀行の取り組みについてお話ししたいと思います。日本銀行は、昨年、行内組織である「気候連携ハブ」を立ち上げ、気候変動に関する体制の強化を図ったほか、「気候変動に関する日本銀行の取り組み方針について」を公表し、様々な施策を実施していくこととしました5

海外の中央銀行でも、取り組みが進んでいます。イングランド銀行では、他の中央銀行に先駆けて、気候変動に対する取り組みを包括的に始めました。欧州中央銀行(ECB6)も、昨年、アクションプランを決定しました。米国の連邦準備制度理事会(FRB7)でも、昨年、気候変動が金融機関や金融システムにもたらす影響を検討するため、ミクロとマクロのそれぞれの観点から担当する2つの委員会を立ち上げました。

気候変動問題に関する中央銀行間の情報共有や協力も進んできています。中央銀行や金融監督当局が気候変動への対処を討議する場として、2017年に「気候変動リスク等に係る金融当局ネットワーク(NGFS8)」が発足しました。日本銀行も2019年から参加しており、気候変動が経済や金融システムにもたらす影響についての討議に加わっています。NGFSは、金融システムのリスクをみるうえで、将来の考えられる気候状況に応じたシナリオ分析が有効であるとの考え方のもとで、基本的なシナリオを2020年に公表し、その後、随時、更新しています。現在、いくつかの中央銀行や金融監督当局は、NGFSのシナリオに基づいた金融システムの分析を実施しています。G7やG20においても、気候変動問題が中心的な議題の一つとして挙げられています。具体的には、TCFD9の推奨に基づいた企業情報の開示の促進、さらには、ISSB10における開示基準の策定、そしてシナリオに基づいた金融システム分析の重要性などが討議されています。アジア・オセアニアにおける中央銀行の集まりである「東アジア・オセアニア中央銀行役員会議(EMEAP11)」でも、気候変動がもたらす影響について議論が行われてきました。アジアは、世界の二酸化炭素排出量の約半分を占めているほか、水害など気候変動の悪影響を最も受けやすい地域でもあります。このため、気候変動への対応について、アジアの政策当局者の関心も非常に高いものがあります。

以下では、まず、中央銀行が気候変動問題に取り組むうえで重要な論点となる、「中央銀行の責務」と「市場中立性」の問題について説明をした後、日本銀行の具体的な取り組みについて、海外中央銀行の事例にも触れながら、お話ししたいと思います。図表3をご覧ください。

  1. 5https://www.boj.or.jp/announcements/release_2021/rel210716b.htm/
    日本銀行のホームページでは、日本銀行の気候変動に関する様々な取り組みについての情報を一覧できるサイトを提供しています。以下を参照してください。
    https://www.boj.or.jp/about/climate/index.htm/
  2. 6European Central Bank
  3. 7Federal Reserve Board
  4. 8Network of Central Banks and Supervisors for Greening the Financial System
  5. 9Task Force on Climate-related Financial Disclosures
  6. 10International Sustainability Standards Board
  7. 11Executives' Meeting of East Asia-Pacific Central Banks

基本的な考え方1:中央銀行の責務

まず、気候変動への対応と中央銀行の責務について考えてみたいと思います。日本を含め多くの国の中央銀行では、「物価の安定」と「金融システムの安定」が責務となっています。先ほど、金融システムにおける気候変動問題の重要性について指摘しましたので、ここでは、「物価の安定」について述べたいと思います。冒頭述べた通り、気候変動の影響により、地球規模での自然災害の大規模化やその頻度の増加がみられています。これによって、生活基盤となる社会インフラの喪失やサプライチェーンの寸断などにより経済活動が阻害される頻度は、近年高まっています。これらは、実体経済活動の変動を大きくし、ひいては、物価の変動に繋がります。また、脱炭素社会への移行過程がスムーズに進まない場合、化石燃料をはじめとしたエネルギー価格の変動とその他の財・サービス価格への影響が懸念されます。中央銀行の行動によって、脱炭素社会への移行がスムーズに進むことになれば、中長期的に物価の安定に貢献することになると考えられます。

このように、気候変動は、中長期的にみて、経済・物価・金融情勢に極めて大きな影響を及ぼし得る要因です。したがって、「物価の安定」と「金融システムの安定」を責務とする中央銀行の立場から、民間における気候変動への対応を支援していくことは、長い目でみたマクロ経済の安定に資するものと考えています。

基本的な考え方2:市場中立性

次に、気候変動への対応と市場中立性についてお話しします。まず、市場中立性の基本的な考え方について述べたいと思います。中央銀行の活動は、様々な面で、社会・経済に影響を及ぼします。その際、中央銀行は、マクロ経済全体に働きかける一方、できるかぎりミクロの資源配分には介入しないことが基本となります。例えば、中央銀行は、個々の経済活動や資金調達について、どれがブラウンで、どれがグリーンか判定することは、避ける必要があります。こうした観点から、中央銀行が気候変動問題に積極的に取り組むことを、どのように考えれば良いでしょうか。温室効果ガスによる「負の外部性」を考慮せずに、民間の投融資が決定されていた場合、現在実施されている投融資に対して中立な行動をとることは、社会的に望ましい姿に比べて、いわゆるブラウン産業に偏った資源配分を温存することになります。一方、温室効果ガスの「負の外部性」を考慮して民間の投融資が行われていた場合には、そうした民間の投融資ポートフォリオに比例的に中央銀行が資産買入れや資金供給を行う方が、脱炭素社会に向けた民間の動きに対して中立ということになると思います。また、先ほど述べたように、現在、企業や金融機関は、気候変動への対応を積極化することで「負の外部性」を「内部化」しようとしています。そうした方向性をサポートすることは、フォワード・ルッキングな観点から、市場中立性を保つことになります。

以上の考え方を踏まえたうえで、日本銀行の具体的な施策についてお話しをしたいと思います。

金融政策

日本銀行は、昨年、金融政策手段の一つとして、金融機関が自らの判断に基づき取り組む気候変動対応の投融資をバックファイナンスする新たな資金供給制度、いわゆる気候変動対応オペを導入しました。図表4をご覧ください。この気候変動対応オペは、原則として年に2回実施することにしており、昨年12月と本年7月に資金供給を実施しました。現在、貸付対象の金融機関は地域金融機関も含め63先あり、貸付残高の総額は3.6兆円となっています。貸付にあたって金融機関に対しては、それぞれの気候変動対応に資するための取り組みについて、TCFDの提言する、ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標という4項目、および、投融資の目標・実績を開示することをお願いしています。一方で、先ほど述べた市場中立性に配慮し、ミクロの資源配分への具体的な関与を避けるため、それぞれの金融機関が行っている個別の投融資案件についてチェックをするということはしていません。金融機関が持っている目利き力とディスクロージャーという仕組みを用いながら、脱炭素に向けた投融資をバックファイナンスというかたちで支援するのが、気候変動対応オペの仕組みです。

ECBは、一定のルールに基づき、気候変動の影響を勘案するかたちで、社債の買入れ方法や担保の取り扱いに差を設けることを決めました。欧州では、タクソノミーや企業のサステナビリティに関連する報告基準が制定されており、ECBの社債買入れや担保の取り扱いもこれらの基準を考慮して実施されています。

一方、わが国においては、気候変動対応に関する基準やタクソノミーを巡る議論が流動的です。この点、気候変動対応オペは、何が気候変動対応に資する投融資かという見極めを金融機関の自主的な判断に委ねることで、変化する企業の資金ニーズに柔軟に応えることができる仕組みとしています。その際、金融機関に一定のディスクロージャーを求めることで、市場からの規律が働くような工夫も施しています。また、日本の金融仲介は、間接金融が中心ですので、銀行を通じて脱炭素に資する投融資をバックファイナンスする気候変動対応オペは、大企業のみならず中小企業の脱炭素化に向けた取り組みを金融面から支援するにあたって、わが国において最も効果的な方法であると考えられます。

これまで気候変動対応オペを実施してきた過程で、金融機関から聞かれた声としては、「自らの開示を進めるきっかけになった」というご意見や、「脱炭素に向けた設備投資について、顧客との対話を進めることができた」とのご意見がありました。日本銀行としては、引き続き、このオペが、一種の触媒としての機能を果たしつつ、わが国における脱炭素への取り組みを後押ししていくことを期待しています。

金融システム

次に金融システムでの対応についてお話しします。社会・経済の脱炭素化を進めていくうえでは、金融仲介機能が適切に発揮されることが重要です。日本銀行としては、こうした状況を適切に把握するとともに、気候関連金融リスクの把握や管理に関する金融機関の取り組みを積極的に後押ししていくことなどを通じて、わが国の金融システムの安定確保と金融仲介機能の円滑な発揮を目指しています。

気候変動問題は、前述の通り、「物理的リスク」と「移行リスク」を通じて、金融機関経営、ひいては金融システムの安定にも大きな影響を及ぼし得ます。より詳しい波及経路については、図表5をご覧ください。気候変動に伴う「物理的リスク」や「移行リスク」が顕在化した場合には、事業の混乱、資産価値の低下、エネルギー価格の上昇など実体経済に大きな影響を与えます。こうした実体経済への悪影響は、資産の価値下落や信用コストの増加などによって金融システムにも影響を与えることになります。

したがって、各金融機関が、気候変動の影響を踏まえて適切なリスク管理を行っていくことが重要です。ただし、気候変動問題には、既存のリスク管理の枠組みに直接取り込むことが難しい特有の性質があります。リスクが顕在化し得る時間軸が非常に長く不確実性も高い、さらには、そもそもリスク管理に必要なデータが存在しない、といった点です。それらに対してどのように対処すべきか、金融機関のみならず、各国の中央銀行や金融監督当局の間でも、喫緊の課題になっています。

こうした認識のもとで、現在、気候変動に伴うリスクが顕在化した場合の金融機関や金融システムへの影響を定量的に把握するための手法の一つとして、「シナリオ分析」が世界的に注目されています。これは、温室効果ガス排出量、炭素価格や世界平均気温などと、これに対応するマクロおよび産業別の経済変数のパスを仮想的シナリオとして何パターンか想定し、それぞれのシナリオについて対応する信用リスクや市場リスクを計測するものです。シナリオの作成には、2018年にノーベル経済学賞を受賞したイェール大学のノードハウス教授が基礎を築いた統合評価モデルが中核として用いられています。また、リスクの計測には、ファイナンス分野においてこれまで研究が深められてきた各種のリスク・モデルが応用されています。

シナリオ分析は、景気の大幅な落ち込みに対して金融機関や金融システムが頑健性を有しているのかを確認するために実施されている従来のストレス・テストと基本的には同じ方法論を採用していますが、同時に異なる点もいくつかあります。第一に、利用可能なデータや計量分析モデルが大きく異なります。従来のストレス・テストは、過去の景気循環などのデータをもとに、様々な分析の蓄積があり、相応に信頼性の高い分析を行うことが可能です。一方、気候変動とそれに関連する経済や金融のデータは、まだ十分に蓄積されておらず、統合評価モデルやリスク計測手法も確立されたものがありません。また、気候変動への対処を行わない場合、これまで人類が経験したことのない事態が生じ、その経済的な負の影響は非線形的に増加する可能性も指摘されていますが、これを定量的に分析することは困難を伴います。第二に、リスク分析のタイム・ホライズンが異なります。従来のストレス・テストの分析のタイム・ホライズンが2から3年であるのに対し、気候変動のリスクを評価するには、これよりはるかに長い数十年後の状況を定量的に把握する必要があります。こうした背景もあって、シナリオ分析は、発展の緒についたばかりです。

シナリオ分析は、現在、多くの国で、取り組まれています。図表6をご覧ください。金融安定理事会(FSB12)とNGFSによるサーベイによると、2022年11月時点で、約40か国・地域においてシナリオ分析を実施済ないしは実施予定です。シナリオ分析の目的としては、個別金融機関あるいは金融システム全体への影響把握、当局と金融機関双方の分析能力の引き上げ、データに関する制約の特定などが挙げられていますが、多くの国・地域で試行段階であることは共通しています。

日本においても、昨年から、日本銀行と金融庁が共同で、大規模金融機関を対象としたシナリオ分析を試行的に行い、その結果を本年8月に公表しました13。この試行的分析では、気候変動の影響に関する定量的な評価を行うことを目的とするのではなく、継続的な分析手法の改善・開発のための端緒と位置付け、データの制約や分析の仮定・手法の妥当性等、シナリオ分析の今後の改善・開発に向けた課題の把握を行うことを主眼に置いています。具体的な分析手法としては、NGFSが提供しているシナリオをベースに当局がシナリオを作成し、各金融機関がこのシナリオについて自身のモデルを用いてリスク分析を行いました。分析の結果、各金融機関は、様々なシナリオに対応してリスク分析を実行できる体制を備えていることが確認できました。一方で、各金融機関が独自に使用するデータや計量モデルの相違などにより、リスクの計測の結果にそれなりに大きなばらつきが生じることも確認されました。こうしたばらつきは、そもそも分析に必要とされるデータが不足していることや、技術や顧客企業の行動等に不確実性が大きいことに由来しています。今後は、こうした今回の試行的取組で判明した課題も踏まえて、金融機関とも対話を深めることなどを通じて、シナリオ分析の高度化を進めていきたいと思っています。

このほか、日本銀行が行っている考査・モニタリングでは、金融機関との間で、気候関連金融リスクへの対応状況や、取引先企業の脱炭素化に向けた取り組み支援等について、深度のある対話に努めています。また、コーポレートガバナンス・コードの改訂を踏まえたTCFD等に基づく開示の質と量の充実を、金融機関に対して促しています。

  1. 12Financial Stability Board
  2. 13公表結果については、以下を参照してください。
    https://www.boj.or.jp/announcements/release_2022/rel220826a.htm/

気候変動関連の市場機能サーベイ

気候変動問題への対応においては、金融市場を通じた金融仲介機能の発揮も重要です。気候変動から生じるリスクや機会が、株式や債券などの金融商品の価格に適切に反映されることで、金融市場を通じた資金調達や運用が円滑に行われ、ひいては、気候変動への対応が進んでいくことが期待されます。こうした観点から、日本銀行は、わが国における気候変動関連の市場機能の状況や、その向上に向けた課題を把握する目的で、金融機関や事業法人、格付会社などを広く対象としたサーベイを定期的に実施することとし、第1回の結果を8月に公表しました14。図表7をご覧ください。主な結果としては、第一に、気候関連のリスクや機会について、金融商品の価格にある程度織り込まれているものの、一段の織り込みの余地があるとの見方が示されました。第二に、グリーンボンドなどの気候変動関連のESG債市場の現状については、ESG債に対して強めの需要があることが示唆されました。投資家側の動機として、社会的・環境的な貢献が重視されていることが影響している模様です。第三に、市場拡大に向けた課題としては、投資家や発行体の広がりに加えて、情報のアベイラビリティやリスク・機会の評価手法に関する課題を指摘するご意見がありました。10月には、サーベイの説明会を開催し、金融機関、事業法人、格付会社、業界団体など約150先にご参加いただいて、サーベイ結果や市場拡大に向けた課題などについて意見交換を行ったところです。

今後も、本サーベイについて、内容面の工夫を図りつつ、年1回の頻度で継続的に実施し、気候変動関連の市場機能の状況や、その向上に向けた課題について把握し、関係者との対話などを通じて、市場の発展に貢献していきたいと考えています。

  1. 14公表結果については、以下を参照してください。
    https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2022/ron220805a.htm/

中央銀行自身の業務運営等

次に、中央銀行自身の業務運営等についてお話ししたいと思います。欧州の中央銀行を中心に、気候変動への対応を意識した業務運営を行う動きが広がっています。日本銀行も、ひとつの事業体として業務を運営するにあたって、気候変動への対応を意識した取り組みを行っています。具体的には、まず、TCFDによる推奨内容を踏まえた開示を本年から開始しました。また、日本銀行が保有する外貨資産について、従来からの安全性と流動性を重視するという保有外貨資産に関する方針の下で、外貨建てのグリーン国債等の購入を行っています。

国際的な協力

さらに気候変動問題については、国際的な議論に参画し、その動向を的確に把握しつつ、積極的に関与していくことも重要です。日本銀行としても、G7、G20、EMEAP等の国際会議や各国中央銀行との会合においては、各国の取り組みについての情報を収集するほか、日本銀行の施策について説明し、多国間の議論への参画を通じて、気候変動に関する取り組みの進展に貢献しています。また、金融システムに関しては、金融庁と緊密に連携を取りつつ、バーゼル銀行監督委員会、FSB、NGFSなどにおいて進められている気候関連金融リスクに関する国際的な枠組みの構築に積極的に関与してきています。気候関連金融リスクの評価に必要なデータの整備に関する国際的な取り組みについても、金融機関や関係省庁等と協力しつつ対応してきています。

国際金融協力については、市場育成の観点から、各国中央銀行との協力を通じて、グリーンボンド等への投資拡充に取り組んでいます。日本銀行は、従来から、アジアの債券市場育成を目的とした地域協力のためにEMEAPの設立したアジア・ボンド・ファンドに投資を行ってきました。昨年7月には、加盟中央銀行と協議のうえ、同ファンドによる域内グリーンボンド市場の育成を念頭においた投資拡充が合意され、本年3月から実施することになりました。

5.金融経済分析面での課題

次に、私共のこれまでの経験を踏まえて、気候変動問題に関する金融経済分析面での課題について触れたいと思います。図表8をご覧ください。

第一に、分析モデルを更に発展させていく必要があるという点です。とりわけ、気候変動が、金融機関や金融システムに対してどのような経済的インパクトをもたらすかを分析する「シナリオ分析」を精緻化させていくためには、理論的な分析ツールの充実や実証研究の積み重ねが不可欠です。また、気候変動は、マクロ経済や物価情勢にも大きな影響をもたらしますので、経済成長論や金融政策分析の面でも、これまでとは異なる視点での分析が必要となるかもしれません。日本銀行では、現時点での気候変動に関する経済分析面での状況を分かりやすく説明するために、金融研究所から「気候変動の経済学」というニュースレターを昨年公表したほか、各種研究会に積極的に参加するなど、関係者との議論を深めています。今後も、研究と実務の両面で、我々が得た知見を幅広く共有するとともに、アカデミックな分野でも分析の深化が進み、それらを我々が取り入れていくといったかたちで、相互交流が進むことを期待したいと思います。

第二に、気候変動問題に関する金融経済的な分析は、自然科学分野の分析と協力していく必要があるという点です。典型的には、シナリオ分析が当てはまります。様々な政策対応によって、気温上昇がどの程度抑制され、その結果、自然災害がどの程度減るのかは、経済的なインパクトを計測するうえで重要な情報です。先行きの経済的なリスクを測るために気候変動のシナリオを提供しているNGFSでは、気候関連の科学者との協力によって、シナリオの高度化に取り組んでいます。気候変動問題はグローバルな問題であると同時に、その影響は地域的にも大きく異なりますので、各国や地域レベルでも、自然科学的な知見と経済学的な影響分析との協力を深めていく必要があると思います。

第三に、気候変動に関するファイナンス分析面での充実が挙げられます。ネットゼロ社会を実現するためには、様々な投資が必要です。先ほど述べました通り、そうした投資を実現するためには、金融機関や金融市場を通じたファイナンスが重要となります。その際、金融機関の貸出金利の水準や、金融商品の価格付けに、気候変動に対処するためのリスクや機会が適切に織り込まれているのかという視点は重要です。先ほどご紹介した日本銀行が行った市場機能サーベイにおいても、そうしたリスクや機会については、一段の織り込みの余地があるとの見方が示されていました。気候変動から生じ得るリスクや機会に関する不確実性の大きさを踏まえると、これらを市場が適切に織り込んでいくことは容易ではないかもしれません。それでも、多様な分析手法が試され、また、データの蓄積が進んでいくことで、気候変動問題への対処の影響が金融商品の価格に反映される度合いが増し、ネットゼロ社会の実現に向けて必要となる投資資金の円滑な供給を後押ししていくものと考えられます。

第四に、データ面の課題があります。例えば、水害に関する物理的リスクを把握するうえでは、水害自体のデータだけではなく、地理的情報も含めた家計や企業の経済活動に関する粒度の高いデータが必要となります。これによって、貸出先企業の水害リスクを定量的に把握し、潜在的な信用コストを計測することができます。もっとも、これまで、水害リスクと企業活動を結び付けた粒度の高いデータの蓄積は限定的です。分析に必要なデータと実際に利用可能なデータの間に存在するギャップ、すなわち、データギャップの問題に取り組んでいく必要があります。

6.おわりに

気候変動の経済学的アプローチの世界的な先駆者は、これまでの話にも出てきたイェール大学のノードハウス教授です。ノードハウス教授は、1970年代から、地球温暖化の経済的な影響について分析を始めていました。もっとも、私の学生時代の指導教官であった宇沢弘文先生も、1970年代から、自然環境を含む「社会的共通資本」や「自動車の社会的費用」の研究に取り組まれていたことは、よく知られています。わが国には、気候変動問題の経済分析における偉大な先駆者がいたことになります。宇沢先生の問題意識を受け継ぎ、現在利用可能な分析ツールやデータを用いて、新しい金融経済分析のフロンティアを切り拓いていくこと、そして、そうした知見をもとに、より良い政策を実践していくことは、我々に課された責務であると思います。日本金融学会においても、気候変動問題に関する分析が深化し、様々な政策インプリケーションを提供していただけることを祈念して私の話を終えたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。