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物価と金融政策:中央銀行の視点から

2001年 4月19日・「物価に関する研究会」第1回会合における増渕日本銀行理事の冒頭スピーチ

2001年 4月19日
日本銀行

目次

はじめに

日本銀行の増渕でございます。本日は、「物価に関する研究会」に多数ご参加いただき、厚く御礼申し上げます。私は、約1年前から、企画室および金融市場局の担当理事として、金融政策運営に関連した仕事に携わっておりますが、当研究会の開催にあたり、最初に中央銀行家の立場から、私どもの問題意識をお話しさせていただきます。

1. 基本的な問題意識

わが国における金融政策の目的は、日本銀行法第2条に謳われているように、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」です。物価の安定が、経済の持続的成長を実現していくうえで不可欠の前提条件であることは、内外で幅広くコンセンサスを得ていると思います。しかし、「物価の安定」をどう定義し認識するか、という具体論になりますと、明確なコンセンサスを得ることが途端に難しくなります。このため、金融政策運営の現場に身を置いておりますと、様々な悩みや問題に直面することになります。

日本銀行は、昨年10月13日に、「『物価の安定』についての考え方」と題する報告書を公表しました。この報告書は、まさにそうした「物価の安定」を巡るいろいろな問題について、金融政策運営の透明性向上という幅広い観点から政策委員会で検討した結果をとりまとめたものです。もっとも、それによってすべてに明快な答えが出たわけではなく、引き続き物価の安定を巡る問題を、外部の研究者のお知恵も拝借しながら、一緒になって考えていくことが必要と強く感じた次第です。そのことが、こうして「物価に関する研究会」を開催するに至った動機となっています。

2. 本研究会における3つの主要テーマ

(1)物価指数を巡る諸問題

そこで、以下では、私どもが抱いている具体的な悩みの一端をご紹介しながら、秋までに3回行う予定にしております研究会各会合の主要テーマや問題意識を述べてみたいと思います。

まず、第1回である本日の主要テーマは、「物価指数を巡る諸問題」です。そもそも「物価の安定を目指す」ことが可能であるためには、まず現実の物価が統計によって正しく測定されていなければなりません。言うまでもなく、物価指数は一定の約束事にしたがって作成される統計であり、統計としての連続性も重要な要素ですので、経済構造の変化を迅速に反映させていくことにはどうしても限界があると言わざるをえません。とくに近年は、情報技術の進歩等を背景に、消費者の多種多様なニーズに合わせて新しい商品やサービスが開発され、その販売や値引きの形態なども様々です。そうした環境変化の中で、何が実質的な価値ないし数量の増加で、何が価格の変化なのかを、客観的に区別すること自体がますます難しくなってきています。

確かに、物価上昇率がある程度高いときには、そもそも物価をどう把握すべきかといった議論は、一種の神学論争として片づけておいてもよかったのかもしれません。しかし、最近のように、物価上昇率がプラスかマイナスかぎりぎりのところで、その変動幅も小さいという状況の中では、物価指数の読み方は格段に難しくなっています。もちろん、そうであるからと言って不可知論に陥ることは、避けなければなりません。日本銀行は、卸売物価指数や企業向けサービス価格指数の統計メーカーとして、その精度を高める努力を続ける一方、金融政策の運営主体という統計のユーザーとしては、物価指数の性格や限界を正しく認識しながら、バランスのとれた解釈を心がける必要があると、常々感じております。

このような統計の問題は、何も物価統計だけに限りません。後ほど申し上げることとも関係しますが、結局のところ、「物価の安定」を物価指数の動きだけで判断することは困難です。金融政策の運営に当たっては、企業収益や雇用、賃金、地価、名目GDPなど様々な統計指標と併せて、経済情勢全体の中で物価動向についての判断を行っていかなければなりません。そのためにも、経済統計全般にわたる信頼性が重要です。当研究会では物価統計に焦点を当てていますが、経済統計全般について、金融政策を含めた経済政策運営の根幹に関わる問題として、もっと幅広く関心が払われてもよいのではないかと思っております。

(2)物価の下落と経済活動

次に、第2回会合では、金融政策運営の観点から「物価の安定」をどのように定義するかに密接に関連する問題として、物価の下落と経済活動の関係について考えてみたいと思います。この点に関しては、経済学者を中心に、物価指数でみた上昇率は多少プラスの方が良い、という議論がしばしばなされていると思います。その理由の一つとして、物価指数の上昇率の上方バイアスが指摘されることがあります。しかしながら、このバイアスの具体的な幅は、必ずしも正確に把握できるわけではありません。また、バイアスの原因と考えられている流通革命等の動きは、ある時は急速に、またある時はゆっくりと進むというのが現実であると思います。そうだとしますと、「バイアスが存在するからプラスのインフレ率が望ましい」、と単純に割り切って考えてよいのかどうか、ややためらいがあるというのが率直な気持ちです。

仮に物価指数が正確であったとしても、物価は緩やかに上昇しているぐらいの方が経済全体のために望ましい、という議論もよく聞かれるところであります。その第1の理由は、その方が各種の相対価格の調整が容易であり、効率的な資源配分が実現しやすいというものです。第2の理由は、名目金利のゼロ制約を考えると、中期的には名目金利がある程度高めになるような物価上昇が存在している方が、デフレスパイラル防止のための十分な金融緩和余地を確保できるという点で望ましい、というものです。

確かにデフレスパイラルは絶対に起こしてはならない危険な現象です。したがって、需要の減退ないし景気の悪化を伴うような物価の下落に対しては、日本銀行としても、これを阻止すべく断固たる姿勢で臨んできております。ただ、近年の物価下落には、情報関連を中心とした技術革新の影響、規制緩和やアジア諸国の台頭などを背景としたグローバル価格への収れん圧力、といった供給サイドの事情が、かなりの程度作用しているという指摘もあります。わが国の消費者物価の上昇率が、長年にわたり卸売物価のそれを大きく上回ってきたことを考えますと、とりわけ個人消費に近い分野で、「価格破壊」、「流通革命」などと呼ばれる現象が今後もしばらく続く可能性があります。

もちろん、例えば流通革命は特定分野における相対価格の低下という現象であって、一般物価の下落と混同してはならない、という議論は、概念的にはその通りだと思います。しかし、現実の経済の動きをみると、石油ショックに代表されるように、石油という特定の分野で生じた価格上昇圧力であっても、ある程度の期間にわたってマクロのインフレ率に影響を与える場合もあります。そのとき、物価全体の上昇はいささかも許容しないという厳格なスタンスを採りますと、経済に重い負担をかけてしまうような強力な引き締め政策を行わざるをえなくなります。同様に、特定分野で構造的な価格下落の圧力が働いている場合、その影響を受けて物価全体が緩やかに下落することは、たとえ経済全体が比較的良好な局面でも、絶対にあってはならないことなのでしょうか。一般物価が上昇も下落もしない状態こそが「物価の安定」である、という考え方に全く異論はありません。しかし、同時に、現実の政策運営を考える場合には、ごくごく緩やかな物価の上昇あるいは下落であっても、それを厳格に回避すべく政策を発動すべきなのかどうか、結局のところ経済全体の動きの中で判断せざるをえない面もあるように思います。

第2回の会合では、以上のような問題を理論的、実証的にどう整理すればよいか、古典的なデフレスパイラルの経験を含め海外の歴史からは何が学べるか、わが国における流通業の実態から得られる洞察は何か、といったようなアプローチで、物価の下落について考えてみたいと思っています。

(3)物価の安定を巡る不確実性と金融政策

第3回の会合では、「物価の安定を巡る不確実性と金融政策」を主要テーマにする予定です。一般に、金融政策は、経済や物価の先行きを予測しながら予防的(preemptive)に行わなければならないとされています。ただ、このことは、将来の予測という本質的に不確実な要素を、政策判断に取り入れていくことを意味します。また、不確実であるのは何も将来の経済動向だけではありません。物価上昇率と経済成長率をはじめとする経済変数間の様々な関係や、現実の統計データについても、不確実性が存在します。さらに、80年代後半のバブルの経験を踏まえますと、表面上物価が安定していても、資産価格が上昇し、その結果経済全体に大きな不均衡が蓄積されていくといった不確実性にも、注意を払うことが必要です。

物価の安定を巡るこうした様々な不確実性に、金融政策はどのように対応すればよいのでしょうか。目に見えにくいインフレ圧力やデフレ圧力を把握するために、GDPギャップを計測したり、マネーサプライや資産価格の情報を利用する、といった努力にも一定の有効性があるでしょう。しかし、同時にその限界もあります。また、例えばバブルの発生や崩壊を巡る不確実性については、仮に本当にバブルが発生、また崩壊するということになれば、経済への影響は非常に大きなものとなりますから、せめてそうした最悪のシナリオだけは確実に回避できるような政策運営のあり方は何かということも、重要な視点になってまいります。第3回の会合では、これらの論点も含めて意見交換を行ってみたいと考えております。

3. インフレーション・ターゲティングについて

以上、3回分の主要テーマと関連させながら、私どもが日頃から抱いている問題意識を述べてまいりました。その中で不確実性の話をしましたが、せめて先行きの金融政策運営に関する不確実性だけでも無くすべきであり、そのためにインフレーション・ターゲティングを採用すべきだ、という考え方も一部で主張されています。

私どもも、金融政策の透明性を確保することは、金融政策の有効性を高めるうえでも非常に重要であると考えております。しかし、「中期的に望ましいインフレ目標」を数値化しようとしますと、先ほどから述べてきた数々の悩みにどうしても突き当たらざるをえません。しかも、とくに現在は短期金利が事実上ゼロ%近辺にまで低下しておりますので、特定の数値目標を確実に達成する政策手段は、きわめて限られています。インフレーション・ターゲティングは、中央銀行がある種の約束を表明することによって人々の期待を安定させる枠組みです。当然、中央銀行としてみずからの約束に自信と責任が持てること、言い換えれば目標インフレ率の妥当性と、その達成手段が必要です。それらが十分でない中で中央銀行がいくら約束を述べても、それを人々に信じてもらうことも、ひいてはそれが政策の透明性向上に役立つことも、難しいように思われます。

ただ、一方で最近のわが国経済が直面しているデフレ方向のリスクを踏まえますと、デフレ心理の払拭に向けて、可能な範囲で強いコミットメントを示すことも必要です。日本銀行は、3月19日の金融政策決定会合で、現在の金融緩和措置を「消費者物価指数の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで継続すること」を決定しました。これは、そうしたぎりぎりのバランスを模索した結果として、政策委員会が出した一つの答えであると私は解釈しております。先ほどから私が述べてきたような悩みや迷いがあるにもかかわらず、「消費者物価の下落はその程度や理由にかかわらず許容しない」というスタンスを明確にしたわけですから、相当に思い切った決断であったと言えます。現在は、そうしたやや異例の割り切りも必要とするような、きわめて厳しい経済情勢であると判断したということになると思います。しかし同時に、いずれ経済が正常化したときの中期的な目標インフレ率まで、インフレーション・ターゲティングという形で今から決めてしまうことは、やはり難しいし、適当ではないというのが、現在の日本銀行の立場です。

4. 結語

インフレーション・ターゲティングは、金融政策の透明性の向上を図るうえで、引き続き日本銀行にとって重要な検討課題です。ただ、インフレーション・ターゲティングを採るか採らないかは、「物価の安定」をより適切かつ透明性の高い形で実現するために、金融政策運営の枠組みの改善を考えていくうえでの一つの論点であるに過ぎません。本研究会での議論が、今申し上げたような幅広い観点から、日本銀行の金融政策運営にとって貴重なインプットになることを、心より期待しています。同時に、折角の機会ですので、皆様方にも中央銀行という政策当局者の立場に身を置いて、私どもと悩みを共有していただければと思います。また、この研究会が、新たな研究の材料や視点を提供するといったことなどにより、皆様方の将来の研究活動に、少しでもお役に立つことができれば幸いと考えております。

私からの話は以上です。

以上