このページの本文へ移動

第2章 決済の道具1.おかねとは何だろうか

おかねの定義

決済というのは、おかねをやりとりして債権・債務を解消することですから、決済に使われる道具は言うまでもなく「おかね」です。おかねとは何か――まずそのことを考えておきましょう。おかねとは、「誰もが『ああ、それが手に入るなら交換に応じてもよい』と思うもの」と定義することができます。大昔の人間が初めに選んだおかねは、家畜や穀物や金属などであったようです。物々交換を効率的に行うために、様々な品物をいったん「多くの人々が日々の生活の中で必ず必要とするような品物」と交換しておく。そうして手に入れた家畜や穀物や金属は、そのまま食べたり使ったりしてもよいし、何かほかの品物が欲しいときには、交換用に差し出せばよいわけです。こういうものは「物品貨幣」と呼ばれています。

金属のおかね

これら物品貨幣のうちでは、運びやすい、腐らない、小分けできるなどの点で金属が便利であるため、主に金属が使われ、やがて一定の型に固めた金属「鋳造貨幣」が使われるようになった、という説明が一般的です。紀元前20世紀頃のエジプトやバビロニアでは金属(地金や金属片)が秤で量られながらやりとりされ、紀元前7~3世紀には中国・ギリシア・ローマで鋳造貨幣が使われ始めたと言われています。今日でも世の中に金属のおかね(コイン)が出回っていますから、人間は約4000年にわたって金属を「おかね」として利用してきたことになります。もちろん、金属以外の物品貨幣も最近まで使われていました。例えば、植民地アメリカでは17世紀半ばに銀貨が作られ始めましたが、その後も穀物などが「おかね」として広く流通していたと言いますし、日本でも鎌倉時代から金属貨幣が本格的に流通していたようですが、16世紀後半以降、金属貨幣とともに米が決済手段として使われていた時期があったわけです。

皇宗元宝の写真

▼皇宋元宝
南宋、13世紀。鎌倉時代の日本では中国製のコインが流通していた。
日本銀行貨幣博物館蔵

紙幣(おさつ)の始まり

山田羽書の写真

今日「おかね」と言った場合、多くの人は紙幣(おさつ)のことを考えるはずです。「おかね」が金属から紙に置き換わってきた歴史は様々なようです。例えば中国(宋、10~13世紀)では、商業が活発化する中で、重たい鉄のコインを運搬するのが不便であったことから「交子」(為替手形=コインの預かり証)が作り出され、おかねとして用いられたとのことです。その後、元(13~14世紀)の時代にはフビライが紙幣を作り領土内の金銀を買い集めた結果、これが広く流通したと言われています(マルコ・ポーロは、人々がこの紙幣を役所に持っていくと金銀に交換してもらえる、と記しています)。

日本では17世紀のはじめ頃、近畿地方の有力商人たちが「私札」という紙幣を発行し始めました。その先駆けは山田羽書(やまだはがき)という銀の預り証で、伊勢山田地方の商人が釣り銭として少額の銀貨を払う際、それに代えて発行していました。ヨーロッパでは、17世紀半ばに金細工師が金属の預り証(ゴールドスミス・ノート、goldsmith note)を発行し、これがおかねとして流通したのが紙幣の始めだとされています。

▼山田羽書
 1600年頃。
 日本銀行貨幣博物館蔵