わが国の雇用・賃金の構造的変化について※1
2002年 8月 2日
大澤直人・神山一成・
中村康治・野口智弘・前田栄治※2
日本銀行から
- ※1本稿における意見等は、全て筆者の個人的な見解によるものであり、日本銀行および調査統計局の公式見解ではない。本稿の作成に当たっては、日本銀行調査統計局のスタッフの協力を得た。この場を借りて感謝の意を表したい。
- ※2いずれも日本銀行調査統計局経済調査課に在籍〈E-mail: naoto.oosawa@boj.or.jp, kazushige.kamiyama@boj.or.jp, kouji.nakamura@boj.or.jp, tomohiro.noguchi@boj.or.jp, eiji.maeda@boj.or.jp.〉
以下には、(はじめに)を掲載しています。全文は、こちら (ron0208a.pdf 501KB) から入手できます。
はじめに
わが国の雇用情勢をみると、2001年を中心とする景気後退局面においては、雇用者数や就業者数が速やかに頭打ちとなり、その後はっきりとした減少に転じた。同局面では、鉱工業生産が従来以上に大幅に落ち込むなど、景気後退がきわめて厳しいものとなっただけに、そうした雇用情勢の悪化は景気展開とある程度整合的な動きと考えられる。しかし一方で、わが国企業の雇用慣行が長期雇用や景気後退局面における労働保蔵を特徴としてきたことを考えると、このように雇用が景気変動に対して敏感に反応し、はっきりと減少に転じるといった現象は、企業行動の構造的な変化を示すもののようにも窺われる。
そこで本稿では、経済変動と雇用、さらには賃金の関係が、近年変化しているのかどうか、その背景にはどのような事情があるのか、そうした変化が「日本的雇用慣行」の変貌を意味するのか、といった点について、考察を加える。また、マクロ的な雇用・賃金の動向に加えて、産業毎の雇用や賃金の特徴点を示すことによって、わが国経済が直面する構造調整圧力との関係についても整理する。そのうえで、最後に、今後の雇用動向をはじめとした労働市場の展望とマクロ経済へのインプリケーション、さらには雇用政策の視点について簡単に論じることとしたい。
予め本稿の内容を要約すると、以下のとおりである。
- 近年のわが国の雇用・賃金の動向を、経済変動との関係でみると、景気回復局面における回復テンポの緩やかさと、景気後退局面における落ち込みの速さという特徴点が見受けられる。この点をより正確に把握するために、80年代〜90年代前半と90年代半ば以降についての2期間に分けて、経済変動と雇用・賃金の関係について統計的に検証してみると、90年代半ば以降は、「経済変動に対する雇用・賃金変動の感応度の高まり」と、「雇用や賃金の構造的な弱まり(伸び率低下)」が生じていることが確認される。
- このように、わが国の企業は、雇用や賃金のフレキシビリティを高めながら、雇用コスト全体の抑制を進めてきていると考えられる。こうした変化の基本的な背景としては、まず、(1)グローバル化や情報化、さらには高齢化といった大きな環境変化が、年功賃金や長期雇用に特徴付けられる日本的雇用慣行の経済合理性を低下させ、年功賃金の見直しや柔軟な雇用体制への変化を促したこと、が挙げられる。また、(2)90年代に景気低迷が長引く中で、日本的雇用慣行も一つの要因となって、労働分配率が大幅に上昇したため、過剰雇用や高賃金の是正が重要な課題となったこと、(3)国際資本移動の活発化などから、企業の収益性が重視される傾向が強まったこと、(4)バランスシート調整圧力から、債務返済原資を捻出するために雇用コストを削減せざるを得ない企業や、倒産に至り強制的な雇用リストラを余儀なくされる企業が増えたこと、といった事情も指摘できる。
- 企業は、雇用コストのフレキシビリティを高めるに当たって、非正規社員の活用に大きく依存している。非正規社員の内訳をみると、形態別には、パートが中心であるが、契約社員や派遣社員の割合が高まっており、職種別にも、事務や販売などの職種だけでなく、専門職や技術職といったより付加価値の高いとみられる職種にまで拡がってきている。企業が非正規社員を活用している背景には、まず、(1)正規社員については従来の雇用慣行を急速に変えることは難しいため、雇用コストの変動費化は非正規社員のウエイトを高めることによって実現せざるを得ない、という事情がある。また、(2)IT技術の発展に伴って非熟練労働の一層の活用が可能となっていることや、(3)制度面では、人材派遣業に関する規制緩和など、労働需要と供給のマッチングを円滑にするような整備が進められていることも、影響していると考えられる。
非正規社員の活用は、国際的にみても、わが国でとくに目立つ現象であるが、実体経済との関係でみた雇用者数全体の感応度という観点からは、依然として米国などに比べかなり低い状態にある。こうした点を踏まえると、わが国において雇用の柔軟性が高まったといっても、いわば限界的な部分での調整が中心であり、それをもって、日本的雇用慣行が大きく変貌を遂げたとまで評価することも適切ではない。 - 雇用コストのうち賃金については、もともとわが国の場合、特別給与が伸縮的であり、全体として伸縮性は高いといわれてきた。最近は、賃金の中でも、所定内賃金の伸縮性が以前に比べはっきりと高まってきているという特徴点がみられる。これは、基本的には、労働時間や日数に応じて支払われる非正規社員のウエイトが高まっていることの影響が大きいと考えられる。現時点では、名目賃金全体の伸縮性が従来に比べ大きく高まったとまでは断定し難いが、所定内賃金の伸縮性がさらに高まっていけば、名目賃金全体の伸縮性が高まり、ひいては、物価の下落が続く中でも、実質賃金の伸縮性の確保に繋がる可能性が考えられる。その意味では、最近変化の兆しがみられる正規社員の所定内賃金の決定方法がどのように変わっていくかが、今後注目を要する点であろう。
- 雇用や賃金の動向を産業毎にみると、わが国経済が直面している構造調整圧力の影響が現れていることが分かる。構造調整圧力の特徴点の一つは、東アジアの供給力拡大に伴う労働集約的な製造業に対する競争圧力の高まりであるが、こうした影響を受けて、製造業の中でも繊維や家電といった労働集約的な産業の雇用削減が顕著となっている。また、規制緩和や財政再建、バランスシート調整圧力といった、非製造業部門を取り巻く環境の変化を反映して、建設業や金融保険業、卸小売業などにおいて、雇用や賃金の弱さが比較的目立っている。こうした中で、製造業では雇用の減少が顕著である一方で、非製造業では賃金の低下幅が大きめであるという点で、雇用コストの削減に際して、その手段がやや異なる動きとなっている。この点については、(1)非製造業では、もともと規制などのもとで、賃金が高めとなっていた業種が多かったこと、(2)製造業に比べると、非製造業では労働集約的な体制を変化させることが容易ではないこと、さらには、(3)相対的に非製造業におけるウエイトが高い非熟練労働については、グローバル化などを背景に、とりわけ需給の緩和度合いが大きかったこと、などが影響していると考えられる。
- 多くの産業において雇用の抑制が強まっている一方で、新規雇用創出の動きも出始めている。この背景には、新たな産業が徐々に拡大しているとともに、新興企業が業容拡大に伴い求人意欲を高めている、といった事情があると考えられる。雇用や求人の増加が目立つのは、高齢化に伴い需要が増加している産業(社会福祉、医療など)、情報化や企業のアウトソーシングに伴い需要が増加している産業(情報サービス、人材派遣など)である。また、卸小売業では、雇用全体は弱めに推移しているが、求人は増加傾向にあり、新興企業等の業容拡大が窺われる。こうした新規雇用創出の動きは、低賃金労働の活用という面もあり、わが国でも賃金の調整メカニズムが働き始めている可能性を示唆していると捉えることもできるが、まだ限界的な動きにとどまっている。また、経済全体でみて新規求人の割には雇用者数の伸びが高まらない傾向が目立ってきている。これは、需要が旺盛なパートや専門的職業に労働供給が十分追いつかないといった、労働市場におけるミスマッチの拡大を示唆している。
- 以上みたとおり、わが国では、雇用や賃金に注目すべき変化が生じているが、日本的雇用慣行はなお変化の過程にあり、労働分配率の高さに示されるように、「構造的」な過剰雇用や高賃金の調整圧力──非効率な労働資源配分──も根強く残存している。したがって、今後、景気が回復に向かうとしても、非正規雇用の需給改善に繋がるとはいえ、雇用全体や賃金の抑制傾向はかなりの期間にわたって続くとともに、そうした動きが家計支出やサービス価格に対し下押しに働く可能性が指摘できる。このほか、設備投資の影響を大きく受けてきたわが国の景気循環の性格が、雇用や賃金のフレキシビリティの高まりに伴い、従来に比べ家計支出の影響を受けやすいものへと変化していくのかどうかも、注目される点である。
- 今後も労働市場の構造的な変化は続くとみられるが、それは、中長期的な観点からみれば、わが国経済全体の効率性を高めるうえで、不可欠なプロセスである。したがって、重要なことは、労働市場全体の柔軟性をさらに高めるように、制度面での整備を着実に進めていくことである。その際、重要性を増している非正規社員としての労働供給を阻害するような制度の見直しについても、早急な検討が不可欠である。また、労働市場の柔軟性が高まりつつも、日本的雇用慣行がなお維持されている結果、若年層の失業問題が深刻化しているという現実を踏まえれば、雇用対策も、中高年層を対象としたものだけでなく、若年層の人的資本の形成などにも配慮したものとする必要がないか、十分な議論が望まれる。