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インフレ期待の形成について

1999年12月
中山興
大島一朗

日本銀行から

日本銀行調査統計局ワーキングペーパーシリーズは、調査統計局スタッフおよび外部研究者の研究成果をとりまとめたもので、内外の研究機関、研究者等の有識者から幅広くコメントを頂戴することを意図しています。ただし、論文の中で示された内容や意見は、日本銀行あるいは調査統計局の公式見解を示すものではありません。

なお、ワーキングペーパーシリーズに対するご意見・ご質問や、掲載ファイルに関するお問い合わせは、論文の執筆者までお寄せ下さい。

以下には、(要旨)を掲載しています。全文は、こちら (cwp99j07.pdf 171KB) から入手できます。

要旨

1. 問題意識と本稿の目的

 「インフレ期待」は、マーケットで日々形成される(観察可能な)名目金利と経済主体に実質的な影響を及ぼす(観察不可能な)実質金利とを結び付ける重要な概念である。インフレ期待の概念なしに、観察される名目金利の高低だけを以って経済環境への影響を論じることは、誤った判断に陥る危険性が高い。

 また、中央銀行が、自らの金融政策の舵取りが名目金利の変化を通じて経済主体にどのような影響を及ぼしてゆくかを理解するためには、(1)経済主体の期待形成のパターンを把握し、(2)期待形成のパターンが経済主体によってどう異なっているのかを把握することが肝要である。これは、経済主体の期待形成パターンが適応的であるか、合理的であるかによって、金融政策の効果浸透のスピードや効率性が異なってくるためである。

 このように、インフレ期待という概念は、中央銀行が金融政策を遂行することによって、経済主体がどのような反応を示すかを判断し、その結果、経済主体の期待形成や実際の経済活動にどのように働きかけてゆくべきかを論じる際に非常に重要なポイントである。それにもかかわらず、わが国においては、その定量的な分析が十分なされてきたとは言い難い。

 本稿では、以上の問題意識から、(1)家計や企業に対するアンケート調査(「消費動向調査」等)などを用い、主としてカールソン・パーキン法により足許までの期待インフレ率を計測するとともに、(2)Roberts[1998]に従い、「適応的か合理的か1」という観点から、家計や企業の期待形成パターンを定量的に把握することを試みた。

  1. 適応的期待形成とは、ある変数(例えば物価)に関して、過去何年間かの(物価の)傾向を踏まえて、これまでの期待を徐々に修正しながら、現時点の期待を形成すること。合理的期待形成とは、ある変数(例えば物価)に関して、現時点で利用可能な情報(物価以外の情報も含む)をすべて利用して期待を形成すること。

2. 期待インフレ率の計測結果

 まず、短期の期待インフレ率をみると、消費者態度指数とCPI(除く生鮮食品)から計測した家計の(短期)期待インフレ率は、CPI(除く生鮮食品)実績値に対して3四半期先行しており、直近(本稿では99/2Qまで推計)は前年比で依然プラスながら、プラス幅はごく小さなものとなってきている。また、短観製品価格判断DI(製造業)と国内WPI四半期ベースの前期比年率換算値から計測した企業の(短期)期待インフレ率は、国内WPI実績値に対して先行・遅行関係はなく(一致しており)、直近(同)は前期比(年率換算ベース)▲2~3%と引き続きかなりのマイナスを続けている。

 次に、残存期間3年の国債利回りと企業行動に関するアンケート調査報告書の向こう3年間実質期待成長率から計算した中期の期待インフレ率をみると、CPI(除く生鮮食品)実績値に対して1四半期先行しており、直近(同)は前年比ベースでトレンドとしては若干上向きとなっているものの、依然として小幅ながらマイナスとなっている。

3. インフレ期待形成パターンの分析結果と結論

 インフレ期待形成パターンに関する分析結果のポイントを纏めると、次の5点である。

  1. (1)家計は、6割前後が合理的な(4割前後が適応的な)期待形成を行っている。
  2. (2)企業は、3割~5割が合理的な(7割~5割が適応的な)期待形成を行っている。
  3. (3)家計と企業を比較すると、企業の方が適応的期待の割合が高い。
  4. (4)企業の期待形成を企業規模別に比較すると、大企業の方が適応的期待の割合が高い。
  5. (5)企業や市場参加者が期待形成の主体となっている中期の期待インフレ率では、適応的な期待形成と合理的な期待形成の割合は半々となっており、(4)の大企業の期待形成パターンと似ている。

 これを踏まえ、背景およびインプリケーションについて簡単に考察する。まず、企業と個人の期待形成の違い、すなわち、企業のほうが家計よりも適応的期待の割合が高い点については、企業の組織的な意思決定の性質が影響している可能性が指摘できる。つまり、家計は昔も今も「自由」に期待形成を行えるのに対し、企業の場合は組織としての意思決定を行う際、過去の趨勢に合わせて「保守的」な期待形成となりがちであるため、企業の方が適応的な期待形成の割合が高いと考えられる。実際、Roberts[1998]では、リヴィングストン・サーベイをベースとした職業エコノミストの期待形成の割合は約4割が適応的であるのに対し、ミシガン・サーベイをベースとした家計の期待形成の割合は3割弱が適応的であるとの結果を得ている。ここで、「職業エコノミスト」は企業人であると考えると、本稿の結果と整合的である。また、Batchelor and Dua[1989]やKeane and Runkle[1990]等の先行研究においても、定量的な割合比較は行っていないが、職業エコノミストの期待形成は適応的であり、家計の期待形成は合理的であるとの結果を得ている。

 次に、企業規模別の期待形成の違い、すなわち、大企業のほうが中小企業よりも適応的な期待形成を行っている割合が高い点をみると、組織が巨大な大企業における意思決定は「保守的」な傾向が強く、経営者リーダーシップがより強く発揮されると考えられる中小企業は家計の「自由」な期待形成パターンに近いことを示しているものと思われる。

 最後に、1983年以降の「物価安定期」における期待形成の比率をみると、家計は6割、企業も5割が合理的な期待形成を行っており、全体としてみれば過半数の経済主体が合理的な期待形成を行っている。仮に、このように、合理的な期待形成が優勢となっているとすれば、(1)人々の中央銀行への信認が十分であり、かつ(2)中央銀行自身が判断の誤りを犯さない限りにおいて、中央銀行は、現時点の経済環境に基づいたメッセージを適切に発信することによって現時点の人々の期待形成にリアルタイムに働きかけることが可能となる。この場合、中央銀行がメッセージを発信した時点の経済環境とその結果が発現してくる時点での経済環境の差異が小さいため、中央銀行が意図した通りの反応がより効率的に得られ、経済全体にとっても政策発動と効果顕現化のタイムラグに起因する社会的損失が少なくて済むと思われる。このような状況下では、中央銀行による適切な情報提供が政策効果を高めることにつながり得る。近年議論されている中央銀行の透明性とアカウンタビリティーの向上は、こうした観点からも重要と言えよう。

以上