このページの本文へ移動

物価指数を巡る概念的諸問題*1 ——ミクロ経済学的検討——

2001年 5月
早川英男
吉田知生

日本銀行から

日本銀行調査統計局ワーキングペーパーシリーズは、調査統計局スタッフおよび外部研究者の研究成果をとりまとめたもので、内外の研究機関、研究者等の有識者から幅広くコメントを頂戴することを意図しています。ただし、論文の中で示された内容や意見は、日本銀行あるいは調査統計局の公式見解を示すものではありません。
なお、ワーキングペーパーシリーズに対するご意見・ご質問や、掲載ファイルに関するお問い合わせは、論文の執筆者までお寄せ下さい。

以下には、(はじめに:本稿の目的)を掲載しています。全文は、こちら (cwp01j05.pdf 155KB) から入手できます。

はじめに:本稿の目的

 物価指数の問題は、抽象的な経済理論の観点からみると、(1)t時点におけるi財の価格pi(t)から集計物価p(t)を作成することであり、(2)とくに効用関数u(x)が与えられた場合、これと双対的な指数p(t)を求めるという、指数問題に還元されがちである。これに対し、日本銀行調査統計局(2000)では、物価統計作成の実務を踏まえると、こうした指数問題以前に、品質調整など様々な困難があるという問題提起を行った。

 勿論、品質調整の問題等は既にBoskin報告などを通じて、経済学者にも広く知られた事柄である。ただ、現時点でのマクロ経済学者の間での標準的な理解は、「これらは統計実務家が処理すべき技術的な問題であり、例えばヘドニック法の広範な利用によって対処できる」、また「それでも現実の物価指数に不可避的にバイアスが伴うならば、これを調整した上で物価情勢を判断すれば良い」といったものであろう。本稿の目的は、こうした理解に対して、(1)物価指数が抱える問題は、そもそもある財の価格pi(t)をどう捉えるか、「物価の安定」をどう考えるかに及ぶ本質的な問題であり、(2)しかも、経済のサービス化、IT化の進展に伴って、物価指数を巡る困難はさらに深まって行く方向にある、という認識を対置することにある。

 こうした問題意識は、本稿の筆者2人がそれぞれ短期間ながら物価統計作成の現場に身を置いた経験の中から生じたものである。実際、品質調整問題一つをとっても、ヘドニック法によって直ちに対処できるのはごく一部の財に過ぎず、サービスやオーダーメイド型の財の品質調整には、極めて困難な問題が伴う。また、日本の商慣行には「事後的な値引き」といったものが広範にみられるが、そこにはバック・リベートを把握するのは極めて難しいという実務的な問題だけでなく、複雑な非線型価格設定(nonlinear pricing)をどう扱うかという理論的な問題が横たわっている。生活実感としての「豊かさ」には、実質所得の概念では十分に捉え切れない「消費し得る財・サービスのバラエティー」というものが大きく影響していると思われるが、このことをどのように物価指数に反映すれば良いのだろうか。さらに、こうした検討は、消費者の「効用」を手掛かりに数量と価格を分解するためのデフレータとしての「物価指数」と、金融政策の目標とされるマクロ経済的な「物価安定」の関係をどう考えれば良いのか、といった疑問にも導いていくであろう。

 残念ながら、現時点の筆者達にはこれらの困難に対して明確な解答を与える力はなく、本稿の内容は問題提起の段階に止まらざるを得ない。しかしその結果、読者に「理想的な物価指数を求める余り、所詮<真の物価>は捉えられないという不可知論に陥っている」、ないし「物価統計改善のための現実的な努力を軽視している」との印象を与えるとすれば、それは決して筆者らの真意ではない。実際、日本銀行調査統計局は物価統計のメーカーでもある訳で、その立場から言えば、こうした抽象的な問題に取り組むに先立って、まずは予算や人員などの資源面での制約の中で、如何にして「よりましな」物価指数を作っていくかが大きな課題である。ただ、この点については、本ワークショップに提出される物価統計課の論文(2001)がより具体的な事例に即して検討しているため、物価指数を巡る概念的な問題を主題とする本稿は、物価指数が抱える諸問題についてミクロ/マクロの理論家に理解の共有を求め、物価安定に関する議論の枠組みを拡げることを狙いとしている。そういう意味で、以下の議論の基本的な性格はあくまでprovocativeなものである点を確認しておきたい。

 本稿の構成について予め述べておくと、まず第2節では、伝統的な物価指数論をやや抽象的な枠組みで定式化した上で、先に挙げたような疑問がミクロ経済学的には如何なる問題として捉えられるかについて、簡単に整理する。続く第3〜5節では、物価指数作成の現場からの視点をも踏まえつつ、(1)品質調整を巡る諸問題、(2)非線型価格設定の問題、(3)財・サービスの多様性について、具体的な事例に即して問題を検討する。また同時に、経済のサービス化、IT化の流れの中で、こうした問題が重要性を増しているという事実を指摘する。最後に第6節では、こうした問題を踏まえた時、「物価の安定」をどう定義すべきかについて、若干の問題提起を行うとともに、「よりましな」物価指数の作成に向けて、関係者の協力を呼び掛けることで結びに代える。

  1. *1本稿は、4月19日に日本銀行で開催された「物価に関する研究会」に提出された論文の改定バージョンである。筆者は、指定討論者の有賀健京都大学教授を始め、研究会の参加者の方々から寄せられた有益なコメントに対して感謝する。