【講演】欧州金融経済情勢とわが国の金融政策
第77回証券経済学会全国大会における講演要旨
日本銀行政策委員会審議委員 白井 さゆり
2012年6月9日
目次
1.はじめに
証券経済学会会員の皆様。こんにちは。日本銀行政策委員会審議委員の白井さゆりでございます。本日は、由緒ある証券経済学会の第77回全国大会の特別講演者としてお招き頂きまして誠にありがとうございます。本日は、同学会の共通論題にもあります欧州、なかでもここのところ再び不透明感を高めているユーロ圏に焦点を当て、「欧州金融経済情勢とわが国の金融政策」というテーマでお話しさせていただきます。
本題に入ります前に、本日の講演の流れについて簡単にご説明いたします。本日は、4部構成でお話を進めていきたいと考えています。まず、第1部では欧州でみられる直近の変化を取り上げ、そのうえで第2部ではユーロ圏が直面する根源的問題について私なりに整理した内容をご説明いたします。それを踏まえて、第3部ではEU・ユーロ圏のレベルで、金融政策を含めた対応について展望いたしまして、最後の第4部ではわが国の経済・物価の見通し、欧州債務問題のわが国への影響、そして日本銀行の金融政策についてお話しして参りたいと思います1。
- 1 本講演で利用しているデータ(本文、図表)は2012年6月6日までのものです。
2.二つの大きな変化:政治情勢の変化と「成長」重視の姿勢
それでは本題に入ります。最近の国際金融資本市場の動向を概観してみますと、昨年末から今年の第1四半期にかけて幾分落ち着きを取り戻しつつあったわけですが、その後一変して再び神経質な展開を示しているように思います。こうした展開の背景には、ユーロ圏において発生した二つの大きな変化が影響していると思っています。一つはユーロ圏の幾つかの諸国において、政治情勢に大きな変化が生じたこと、もう一つはそれにより財政緊縮策との対比で「成長」という言葉が盛んに語られるようになったことです。
政治情勢の変化
政治情勢の変化については、4月23日にユーロ圏の「コア国」の一つであるオランダにおいて、財政緊縮策で連立政権が合意できずに内閣が総辞職を表明したことがきっかけではなかったかと見ています2。これは、2013年の財政赤字について、対GDP比をEU基準値3%に抑えることを主張するルッテ政権に対して、連立与党に閣外協力していた一政党が反対し、2013年の財政赤字目標の緩和を主張したことが原因でした。オランダでは、リーマンショックを契機に世界金融危機が発生するまでは、財政黒字を維持し、政府債務の対GDP比もEU基準値60%を下回っていました。その後、財政収支は赤字へ転換して2009年にはピークの5.5%まで拡大しましたが、2011年には4.6%まで低下しています。財政赤字の継続によって政府債務残高の対GDP比は2011年には65.2%まで上昇していますが、それでもユーロ圏平均の88.0%をはるかに下回っています。しかも、オランダは経常収支の黒字を維持していることから日本と同様に対外純資産がプラスの「対外債権国」ですし、失業率も5%台に留まっており、マクロ経済の状況が比較的良好な国です。だからこそ、私自身は、今回のオランダの政変を驚きをもって受け止めました。とはいえ、実質GDP成長率が2011年第3四半期から3期連続マイナスという景気後退局面にあって失業率も少しずつ悪化していますので、財政緊縮策に対する国民の反発が高まっていた可能性があります。結局、4月26日に与党と一部の野党が大幅な歳出削減策(2013年で124億ユーロ)で合意には至りましたが、総選挙が9月に実施されることが決まりました。
さらにユーロ圏第2位の経済大国・フランスにおいても政権交代が起こりました。オランダの政変より1日前の4月22日に第1回大統領選が実施され、社会党党首のオランド氏が現政権を率いるサルコジ氏を制して1位となりました。オランド氏は「財政協定」の再交渉のほか、歳出拡大、(サルコジ氏が提唱していた)付加価値税の引き上げ計画の停止、高所得者層への所得税率の引き上げ、大企業の法人税率の引き上げ等を主張していましたので、同氏が5月6日実施の第2回大統領選で最終的に勝利を収めた後、フランスの財政再建の行方についても不透明感が高まりました3。
そして最大の政治情勢の変化は、5月6日に開催されたギリシャの総選挙において連立与党が過半数の議席を取れず、その後の組閣交渉も決裂して6月17日に再選挙を実施することに至ったことにあります。ギリシャで新政権が誕生してトロイカ —— 欧州委員会、国際通貨基金(IMF)、欧州中央銀行(ECB) —— と取り決めた財政再建・経済改革の遂行が頓挫すると国際金融支援が停止し、それによるデフォルト、ユーロ離脱へ至るとの連想が国際的に強く意識されるようになり、一気に市場の警戒感が高まることになりました。
- 2 ここでは、便宜的に、ドイツ、オーストリア、オランダ、フィンランドをコア国と呼ぶことにします。いずれも、経常収支が黒字で、極めて高い国債格付けを有する諸国です。
- 3 財政協定は、各国が自国の法律(たとえば憲法)で「構造的財政収支」の均衡化(GDP比で-0.5%)を制定することを義務付けたものです。基準値から乖離した場合、欧州委員会の勧告にもとづき当該国は是正計画を提出し、計画を実行できなければ最高でGDPの0.1%の罰金が適用される可能性があります。3月2日の欧州理事会で英国とチェコを除く25カ国が署名しており、各国は2012年末までに批准する必要があります。2013年1月1日までに発効予定ですが、一時的乖離を例外的状況のもとで認める緩和措置も含まれています。また、強化された「安定・成長協定」によれば、政府債務残高の対GDP比について、基準値60%を超える国は、基準値との乖離幅を毎年20分の1ずつ引き下げていく必要があります。
「成長」重視の姿勢
こうした政治情勢の変化を反映して、第二の大きな変化として、欧州の複数の要人が「成長」「成長協定」という言葉を盛んに使うようになったことを指摘できます。まず4月25日にECBのドラギ総裁は、財政協定だけでなく「成長協定」が必要だと主張しました。その後の5月3日の記者会見において、同総裁は、成長協定として、(1)欧州投資銀行(EIB)やEU構造基金等の活用によってEU域内での投資プロジェクトの拡大、(2)財政再建については歳入増よりも歳出減(とくに公共投資よりも経常支出の削減)の重視等を主張しています4。5月5日には欧州委員会のレーン副委員長が欧州の景気刺激策として、域内インフラ投資、中小企業に対する融資保証へのEU構造基金の活用、財政黒字国による公共投資の拡大等、を提唱しています。これに呼応して、5月8日には、同委員会のバローゾ委員長がEU域内のインフラ整備を中心とする景気刺激策を発表し、6月末の欧州理事会で採択を目指すと表明しています。また、財政協定を見直したいフランスと堅持を主張するドイツとの間で折り合いをつけるべく、5月7日にユーロ圏財務相会合のユンケル議長は財政協定を修正せずに成長促進については別の枠組みで検討することを呼びかけました。こうした流れを受けて、ファンロンパイ大統領は5月23日に非公式の欧州理事会を開催し、財政再建と成長のバランスについて協議しました。
- 4 財政再建についてのこのような見方は、最近支持を集めつつあるようです。こうした見方の背景として、例えば、IMFは2010年10月の「世界経済見通し」報告書において、財政再建は歳出削減のほうが税収拡大よりも景気下押し圧力が小さいと指摘しています。その理由として、歳出削減策採用後の方が、(付加価値税率等の引き上げを含む)税収拡大策の採用後よりも、中央銀行が金融緩和を実施する傾向があるためと指摘しています。
「成長」が重視される背景
では、ここにきてなぜ「成長」が重視されるようになったのでしょうか。EUでは、これまで、財政赤字削減とともに成長促進についても積極的に検討し取り組もうとしており、ここにきて「成長」という問題を改めて取り上げる必要はないようにも思えます。この点、私は「成長」という言葉 —— のちほど触れるようにこの言葉の解釈自体が発言者によって異なっている印象がありますが —— が語られる文脈が、政治情勢の変化も相まって、大きく変化していることに注目しています。
ご記憶にあるかと思いますが、EUは、2010年6月の欧州理事会で、雇用と持続的な成長を促すために各国が必要な経済改革を実施していくこととし、その際の行動指針として2020年に向けた新10カ年計画「欧州2020」を採択し、目標実現のために五つの具体的な数値目標を定めました5。この流れを受けて、2011年に、EUは「ユーロピアンセメスター」を導入し、各加盟国は持続可能な財政の達成計画と国家改革プログラムを提出し、これをもとに欧州委員会は、国別政策勧告案において詳細な財政再建・経済改革についての政策提言を行っています。
また、欧州委員会は従来の財政再建を重視するアプローチに加え、経済不均衡や競争力格差の是正にも取り組むべく、2011年12月に、いわゆる「マクロ経済不均衡手続き(MIP)」と呼ばれる仕組みを導入しています。具体的には、各国ごとに競争力関連指標を含む10指標で構成される「スコアボード」を作成し、内在する又は潜在的な過剰不均衡を識別することに努めています。しかも、これら10指標についてそれぞれ参照値を定めており、それから大きく乖離する場合に早期警告シグナルとして活用し、各国固有の事情や制度等も考慮したうえで欧州委員会が勧告し、それにもとづき当該国に是正措置を促すことになっています6。仮に不均衡が大きいと判断されますと、当該国に達成年を明記した改善計画の提出を要請し、当該国が提出する進展報告書をもとにサーベイランスを行っていきます。是正措置が取られない場合には、最高でGDPの0.1%までの罰金が適用される可能性も取り決められました。なお、今回の改革では「逆特定多数決」システムを採用しており、これにより、加盟国が特定多数決で制裁勧告を否決しない限り、ほぼ自動的に制裁勧告が適用されることになります。
さらに、欧州委員会は、2012年2月に、第1回「警戒メカニズム報告書」を公表し、スコアボードにもとづき、スペイン、イタリア、ベルギー、フランス、英国を含む12カ国についていくつかの潜在的なリスクがあるため、詳細な調査が必要との判断を下しています7。例えば、スペインの場合、改善が見られつつも対外・国内不均衡が依然として大きいこと、建設部門に属する資源(たとえば労働者)の再配分には時間がかかること、同部門の雇用調整は賃金調整が進まないこともあってさらに深刻化しており、失業率を高める結果となっていると指摘しています。因みに、同報告書ではトロイカと合意した財政再建・経済改革を実施中のギリシャ、アイルランド、ポルトガル等は除外されています。また、同年5月末には、欧州委員会は、同12カ国についてマクロ経済の不均衡が大きく是正が必要であるため、緊密に監視を続けていくと指摘しています。
このように経済不均衡や競争力格差の是正に向けた取り組みが意識的に行われているにもかかわらず、最近になって、なぜ「成長」という言葉がクローズアップされているのでしょうか。とくに、周縁国の一部では成長力を高めるために一連の経済改革に着手したばかりで、これから多くの改革が必要とされる状況であるにもかかわらずです。この問いに対する答えは、おそらく、欧州の明るい将来像が人々の間で共有しにくくなるなか、こうした経済改革が中長期的な恩恵をもたらすと考えられるにもかかわらず(図表1)、社会的に大きな変化をもたらし、しかも、短期的には賃金抑制や解雇等の痛みを伴うものが多いことから、国民の反発を受けやすいという事情があるように思います。つまり、最近使われる「成長」という言葉は、従来のような中長期に実現しうる競争力強化といった文脈よりも、景気後退下で財政緊縮政策がもたらす痛みをいかに和らげるかという文脈で語られるようになっていると感じています。財政再建や構造改革を実行していくにあたり、市場の信認回復や金利低下といった成果が出るには相応の時間がかかり、その前に短期的な内需減少や銀行のデレバレッジが進行することにより、さらに国民の不満が蓄積することも意識されている可能性があります。加えて、世界経済の回復の勢いが欧州に十分な外需をもたらすほど盤石ではないなかで、ユーロ圏諸国が財政緊縮策を同時実施しているために相互に景気後退の波及をもたらしており、財政再建が目に見えて進展しにくいことへのいらだちもあるのかもしれません。いずれにせよ、「成長」という言葉が語られる文脈がかつてと現在では大きく変化していることに注目する必要があると思います。
- 5 五つの目標とは、(1)20〜64歳の男女就業率の75%への引き上げ、(2)政府・民間の研究開発投資額の対GDP比3%の目標達成、(3)温室効果ガス排出量を2020年までに1990年比で原則20%削減、(4)早期離学者を現在の15%から10%以下への引き下げ、30〜34歳の年齢層で高等教育か同等教育を修了した人々の割合を少なくとも40%への引き上げ、(5)貧困と社会的排除のリスクにある人々を少なくとも2千万人の規模で削減、を指しています。
- 6 10指標は、(1)対外不均衡・国際競争力関連と(2)国内不均衡関連とに大別されています。(1)については、経常収支の対GDP比(3年間の移動平均)、対外純資産の対GDP比、実質実効為替レートの(3年間の)変化率、世界輸出シェアの(5年間の)変化率、(3年間の)名目単位労働費用(ULC)の変化率の5指標から構成されています。(2)については、実質住宅価格の対前年伸び率、民間信用変化額の対GDP比、民間債務の対GDP比、一般政府債務の対GDP比、失業率(3年間の移動平均)から構成されています。各指標の参照値については、経常収支の対GDP比が黒字6%から赤字4%の範囲内、対外純債務の対GDP比が35%以内、実質為替レートが上下5%以内、輸出シェアがマイナス6%以内、名目ULCの伸び率が9%上限となっています。(2)の参照値については住宅価格の伸び率が6%上限、民間信用変化額の対GDP比が15%上限、民間債務の対GDP比が160%上限、一般政府債務比率が60%、失業率が10%となっています。実質実効為替レートと名目ULCについては、ユーロ非採用国の参照値はもっと緩くなっています。
- 7 27カ国のうち、国際金融支援をうけているギリシャ、アイルランド、ポルトガル、ルーマニアを除く23カ国のなかで、チェコ、ドイツ、バルト三国、ルクセンブルク、マルタ、オランダ、オーストリア、ポーランド、スロバキアについては、詳細調査の必要なしと判断されています。
「成長」についての解釈
こうした背景があるからとはいえ、最近よく語られる「成長」という言葉の意味は、発言者によって異なっているとの印象を受けます。私なりに整理しますと、少なくとも三つの見方があるように思います8。一つ目の見方は、EIBの財務基盤拡充による貸出能力の拡大、欧州委員会が2011年に提案した「プロジェクト債」の導入、EU構造基金等の使い勝手の改善等によってEU域内でインフラ投資を拡大していくことにより、緊縮財政の景気下押し圧力を和らげようというものです。二つ目の見方は、財政赤字目標(基準値は対GDP比で3%)の達成時期を遅らせて短期的な内需減退の影響を緩やかにしようというものです9。三つ目の見方は、さまざまな経済改革のなかでも(労働市場の柔軟性の強化など)雇用や成長力引き上げに直結するような対策を優先して実施し、国民の改革への疲労感を和らげようというものです。
いずれにしましても、現時点では、各国が取り組むべき経済改革の内容そのものを否定するものではないようにうかがわれます。第一の見方については少し進展がみられており、5月23日の非公式EU首脳会議ではEIBの取締役会に対して6月末までに増資を検討するように要請しています。また、5月22日に、プロジェクト債を2012年夏頃までに試験導入することでEU閣僚理事会、欧州委員会、欧州議会で合意しています10。第二の見方である財政再建をペースダウンする選択肢は、市場が納得するような中長期的な財政再建計画が策定できるかにかかっており、周縁国によっては容易ではないかもしれません。ただし、2012年5月末の国別政策勧告案において、欧州委員会は、スペインに対して、地方政府の歳出管理の改善と2013年〜14年についての堅実な複数年予算の実施を条件に、財政赤字3%目標の達成時期を1年延長して2014年にする用意があると述べています。また、EU加盟国に対して、歳出を可能な限り公共投資に振り向けるようにと提案しています。
- 8 この点に関連する提案として、このほかにユーロ共同債の発行がありますが、昨年ドイツの反対で一度は収まった同案をオランド大統領が再度提唱しています。共同債については、ドイツのメルケル首相も長期的なビジョンとして否定しているわけではありませんが、まず各国が財政再建を果たすまでは市場の財政規律を重視する立場を堅持しているほか、関連条約の改正が必要とみられるため、すぐに実現するのは難しいように思います。また、最近では、欧州委員会が、域内で統一した金融監督と単一預金保険スキームを伴う「銀行同盟」案を示しています。預金保険スキームについては数年前に提案されましたが、当時は加盟国によって否定されています。こうした事情も踏まえると、「銀行同盟」案も導入までには時間がかかりそうです。
- 9 たとえば、欧州委員会は2012年5月に、2013年に財政赤字目標の達成を公約しているユーロ圏諸国のうち、スペイン、フランス、オランダ(本文で触れた4月発表の追加歳出削減策とその影響については、「十分に特定できず、数値化されていない」旨、明記されています)、スロベニア、スロバキアでは追加財政措置をとらない限り、達成困難と指摘しています。
- 10 EUは、プロジェクト債の保証に対して、2億3千万ユーロを用意し、EIBが同投資計画を管理する予定です。また、EIBからの保証が加われば保証額がさらに拡大するほか、これらにより企図している通り民間資金が加われば、インフラ投資のための比較的多くの資金が集まることが期待されています。
3.ユーロ圏の三つの根源的な問題
以上、最近の変化について私が感じていることをお話ししてきましたが、これらの背景にはユーロ圏が抱える根源的な問題が横たわっているように感じています。この根源的な問題を、「域内の経常収支不均衡の累積がもたらした問題」、「経常収支不均衡の背景にある貯蓄・投資ギャップにかかわる問題」、「財政収支不均衡の累積がもたらした問題」の三つの切り口から整理して、お話を進めていきたいと思います。勿論、これらは相互にかかわっており、独立した要因ではございませんけれども、この切り口からみれば、ユーロ圏が現在抱えている問題をより的確に理解できるのではないか、と考えています。
経常収支不均衡の累積
まず、第一の問題ですが、ユーロ圏域内の経常収支の不均衡は、共通通貨ユーロを採用して以来、拡大してきました(図表2)。為替リスクが消滅し、インフレ格差も縮小したことから、ギリシャ、アイルランド、ポルトガル、スペインといった「周縁国」では低金利(実質金利ではコア国よりも低い水準)で域内から資金調達ができるようになり、対外純債務の膨張を許す結果となりました(図表3)11。周縁国への資金の出し手は(経常収支が黒字の)コア国やフランス等が中心でしたが、対外債務が経済規模対比で膨らみ、しかも資本流入の内容が銀行借り入れや債券が中心であったことは、外国投資家のセンチメントの変化にさらされやすい構造を生み出したと考えられます。しかも、本来、資本流入が生産力を高める投資や産業の高度化を促す投資に回っていれば、やがては生産性向上によって単位労働費用(ULC)が低下して国際競争力が高まり、経常収支を黒字化して対外債務を減らしていくことが可能であったと思います。
しかし、結局のところ、(ハイテク分野に多国籍企業が多く進出するアイルランドには完全に当てはまるわけではありませんが)周縁国に向けた資本流入の多くは消費あるいは住宅・建設産業に回りました。このため、持続的な経済成長と対外純債務の抑制あるいは減少をもたらすことはなく、経常収支の赤字が永続することになったわけです(前掲図表2)。対外債務を削減していくためには経常収支を黒字化していく必要がありますが、現時点では、もともと経常収支の赤字幅が小さかったアイルランドのみがそれを実現しています。確かに、2007年から2011年にかけて経常収支の対GDP比でみた削減幅はギリシャとスペインで各5〜6%ずつ、ポルトガルで約4%改善してはいますが、黒字化にはまだまだ時間を要するように思われます。このため、3カ国にとって対外純債務の残高がなかなか減らない状態がしばらく続きますので、ストックベースにもとづく対外不均衡は是正しにくいということになります。対照的に、コア国のなかでは、フィンランドが同期間に約5%ほど経常収支を悪化させましたが、ドイツ、オーストリア、オランダではあまり減っていません。とくにドイツの経常収支の黒字がGDPに占める割合は現在でも5%前後、オランダは7.5%以上、オーストリアは2%弱と高い水準にありますので、対外純資産は拡大を続けています。つまり、域内では経常収支の格差が縮小しつつあるものの、黒字国では対外純資産が、赤字国では対外純債務がそれぞれ増え続けているのです(前掲図表3)。こうした事情が、ユーロ圏のなかでもとくに純債務国にとって市場の信認を高めて民間ベースの資本流入を再開することが難しい背景にあるように思います。
- 11 イタリアでは、経常収支の赤字が元来小さく、マクロ経済不均衡手続き(MIP)で定めた参照値4%を下回っています。このため、対外純債務の対GDP比は4カ国と比べかなり小さく、参照値の35%を下回っているほどです。しかも、一般政府のプライマリーバランスは黒字を実現しています。これらの点を踏まえて、ここでは、イタリアを除く4カ国について取り上げています。
「貯蓄・投資ギャップ」の拡大
第二に、経常収支の恒等式である「貯蓄・投資ギャップ」の動向について見てみますと、世界金融危機が発生するまでの周縁国では4カ国とも貯蓄の対GDP比(貯蓄率)が低下する傾向にありました。貯蓄率の低下幅はギリシャが最大で、次いでポルトガルでも大き目でした(図表4)。このことから、ギリシャとポルトガルでは、資本流入のかなりの部分が個人消費または政府部門の給与や社会的給付等のファイナンスに回っていたと推察されます(前掲図表4)。しかも、ドイツでは貯蓄率が上昇する傾向がありましたので、ドイツに対するギリシャとポルトガルの経常収支の格差は「貯蓄率の格差」の拡大が主因であったと考えられます。一方、スペインとアイルランドの貯蓄率についてはドイツとさほど大きな差がありませんでした。むしろ、両国の投資の対GDP比(投資率)が上昇する傾向にあったにもかかわらず、ドイツの投資率は比較的低位で推移していましたので、ドイツに対するスペインとアイルランドの経常収支の格差は「投資率の格差」の拡大が主因であったと思います(図表5)。両国の投資率の上昇は住宅・不動産投資ブームを反映しており、両国の住宅価格がかつて急上昇していたことはよく知られているところです。世界金融危機後の周縁国は、4カ国とも貯蓄率が低下し続けていますので、先ほど申しました経常収支の改善は「貯蓄率の改善」が原因ではないことが分かります。いずれの国も「投資率を低下」させたことが経常収支の改善に寄与しており、とくに住宅・建設バブルの崩壊で住宅価格が急落したアイルランドで最も極端に投資率が低下しています。他の3カ国もかなりのピッチで投資率が低下しているように見えます(前掲図表5)。これほど投資率が下がれば、さきほども指摘しましたが、EIB、プロジェクト債、EU構造基金等を活用して域内インフラ投資拡大で雇用を図ろうという見方が高まってくることも納得がいきます。
財政収支不均衡の拡大
第三に、域内の財政収支の不均衡についてですが、周縁国のなかではギリシャだけが元来財政赤字が大きく、かつ政府債務残高の対GDP比も100%を超える国でした(図表6、7)。世界金融危機前のスペインとアイルランドでは、財政黒字を維持していましたので、政府債務残高の対GDP比はEU基準値60%を下回っていました。ポルトガルでは、財政赤字が3%基準値に向けてほぼ到達寸前の状況にありましたので、政府債務残高は60〜70%台と基準値からさほど乖離していませんでした。世界金融危機後は、ほとんどの国で景気刺激策や銀行救済策を実施したために、財政赤字が拡大しています。2007年と2011年の2時点を比較した財政収支の悪化幅は、ギリシャで-2.6%ポイント(以下、%p)、アイルランドで-13.2%p、ポルトガルで-1.1%p、スペインで-10.4%pにも達しました。ところが、ドイツでは僅か-1.2%p悪化した程度でしたので、域内の財政収支の格差はむしろ拡大する結果となっています。ドイツの財政赤字は、既に基準値3%を下回っており、欧州委員会の推計によると、2012年は1%前後で推移し、2013年にはさらに緩やかに改善してほぼ均衡する見通しです。2010年から2年間続けて3%以上の比較的高い成長を実現し、失業率が過去最低の5.6%まで低下しているドイツでは、さほど厳しい緊縮財政を行わずとも財政再建が可能な状態にあるのです。周縁国については、財政赤字の拡大を早急に抑えていかなければ、政府債務残高の対GDP比は今後も上昇を続けていくことになります。他方、ドイツの政府債務残高の対GDP比は近い将来低下に転じると予想されます。この結果、域内ではストックベースにもとづく不均衡が拡大していく可能性があります。
4.EU・ユーロ圏レベルでの支援
このように根源的な問題に直面するユーロ圏では、コア国よりも周縁国でより大きな経済調整が必要とみなされています。周縁国が一連の財政再建・経済改革を実施していく必要があるにしても、経済調整がもたらす急激な痛みを和らげて長期間を要する改革への意志を持続しなければ、改革そのものが頓挫するおそれもあります。とくに民間部門への資本流入が乏しくなっている周縁国では、国際金融支援が欠かせません。仮に支援がなければ、さらに厳しい内需収縮を短期間で余儀なくされ、その分だけ経常収支の赤字や財政赤字の削減は進みますが、国民には相当な痛みを伴うことになりかねません。
最初の国際金融支援の受け入れ国・ギリシャ
さて、ご存じのように、ユーロ圏で最初に国際金融支援を受けたのは2010年5月のギリシャです。第1次支援の総額は1,100億ユーロで、ユーロ圏が2国間融資の形式で800億ユーロ、IMFが300億ユーロ拠出を決定しました。しかしギリシャの政府債務残高は急ピッチで増加を続けていたため、同支援の終了時期が到来する前の2012年3月から4月にかけてギリシャ国債の民間債権者が保有する分について、「秩序だった債務再編(PSI)」が行われました。そして、それに伴い第2次国際金融支援が始まりました12。第2次支援の総額は、第1次支援の未払い額を含む1,727億ユーロで、ユーロ圏が1,447億ユーロ、IMFが280億ユーロ拠出することになりました。ユーロ圏の拠出額には、PSIへのインセンティブを高める措置、銀行の増資資金等も含まれています。現在は、6月17日の再選挙とそれによる新政権が樹立されるまではトロイカによる調査団の派遣がされない予定ですので、その間融資は実行されません。
- 12 PSIでは、ギリシャ国債2,056億ユーロが再編交渉の対象となり、参加率は2012年4月末時点で約97%へ上昇しています。民間債権者は金利削減や償還期限の長期化等によって債務の現在価値の削減に応じています。この債務再編によるヘアカットと新規プログラムにより、ギリシャの政府債務残高の対GDP比を2011年の165%から2020年には120%以下へ引き下げる計画です。
新たに構築されたユーロ圏の金融支援制度
ギリシャ財政危機は、周縁国のアイルランドとポルトガルにも波及し、両国も国際金融支援を受けることになったことは記憶に新しいと思います。アイルランドへの国際支援は2010年11月に、ポルトガルへの国際支援は2011年5月に開始されています。この目的で、ユーロ圏諸国は2010年5月に「欧州金融安定ファシリティ(EFSF)」の設立を決定し、8月に業務を開始しています。現在のEFSFの貸出能力は、ユーロ圏諸国の7,800億ユーロの保証額にもとづき最大4,400億ユーロとなっています。2011年10月のユーロ圏首脳会合ではEFSFに国債市場への介入などの新しい追加機能を付与することで合意したほか、ユーロ圏諸国の国債を購入する民間投資家への損失保証と官民基金の設立が取り決められています13。
そして、ユーロ圏の他の諸国への危機波及を防止するために、ユーロ圏は恒久組織として「欧州安定メカニズム(ESM)」を2012年7月に設立することを決定しています。この組織は払込資本が800億ユーロで、貸出能力は最大5,000億ユーロとなっています。EFSFが新規支援プログラムへの関与を終了する2013年6月までは両組織が併存することになります14。緊急時のESMにおける議決手続きについては全会一致から85%の特定多数決へと緩和されたことで、融資決定も迅速になることが期待されています。これに加えて、IMFも資金基盤の強化に努めており、2012年4月20日のG20財務相・中央銀行総裁会議では4,300億ドルを超える拠出額を確保したと発表しています。ユーロ圏諸国は合計2,000億ドル、わが国は600億ドルの拠出額を表明しています。これらの資金がすべて欧州向けに配分されるわけではありませんので、どの程度の金額が利用可能かについては幾分不確実性が残りますが、ユーロ圏の経済大国への危機波及をある程度防止するファイアーウォールとしての効果が期待されています。
- 13 アイルランドへの国際支援総額675億ユーロの内訳は、EFSFが177億ユーロ、欧州金融安定化メカニズム(EFSM)が225億ユーロ、2国間支援として英国・デンマーク・スウェーデンが計48億ユーロ、IMFが225億ユーロとなっています。また、ポルトガルへの国際支援総額780億ユーロの内訳は、EFSFが260億ユーロ、EFSMが260億ユーロ、IMFが260億ユーロとなっています。EFSMは、EUに代わって欧州委員会が市場から資金調達をして実施する融資制度で、最大600億ユーロの融資枠があります。
- 14 2012年3月に、ユーロ圏ではEFSFとESMを合わせた融資能力を7,000億ユーロにしています。ただし、これはESMの既定の5,000億ユーロに、EFSFがギリシャ、アイルランド、ポルトガルに融資をコミットしている約2,000億ユーロを加えた合計です。さらに、これらの諸国へEFSMがコミットしている融資額やギリシャ第1次支援時のユーロ圏による支援額等の1,000億ユーロに加えて、総額8,000億ユーロとの表現もなされています。しかし、これらの数字の全てが新規貸出能力でないことには留意が必要です。
危機対応としてのECBによる金融政策
世界金融危機への対応として、ECBは政策金利である「メインリファイナンスオペ金利」を段階的に引き下げて、2008年10月の4.25%から史上最低水準の1%といたしました。その後、2011年4月と7月に各0.25%ずつ引き上げて1.5%としましたが、欧州財政危機が深刻化したため11月と12月に各0.25%ずつ引き下げて1%に戻しています。その他の2011年夏以降の対応としては、預金準備率の引き下げ、担保要件の緩和、証券市場プログラム(SMP)による国債購入の拡大、固定金利方式の無制限資金供給オペレーションの拡充、ドル流動性供給オペレーションの拡充、カバードボンド購入プログラムの再開等のさまざまな措置がとられています。
これらのなかでも金融市場の安定化に比較的大きな効果があったと考えられる措置として、二つ指摘したいと思います。一つは、2011年11月末に日本銀行、カナダ銀行(BOC)、イングランド銀行(BOE)、米国連邦準備制度(FRB)、スイス国民銀行(SNB)と共同で決定した、米ドルを始めとする流動性支援の供給能力を拡充するための協調策です(図表8)。なかでも各中央銀行が既に運用している時限的な米ドル・スワップ取極に適用される金利を0.5%半減させたこと、および同取極の期限を2013年2月1日まで延長した措置は、それまで高水準で推移していた欧州系金融機関のドル調達金利コストを低下させ、市場を安定させる効果がありました(図表9)15。また、欧州系金融機関のドル調達コストが低下したことで、ドル建て資産を多く保有する金融機関による資産の投げ売りや急速な融資抑制などの急速なドルベースのデレバレッジをひとまず回避できたと考えています。
もう一つは、2011年12月8日にECBが発表した、2回(同年12月21日と2012年2月29日実施)にわたる3年物の「固定金利方式の無制限資金供給オペレーション(3年物LTRO)」16です。また、同日には預金準備率を2%から1%へ引き下げることや担保要件を緩和することを発表し、金融機関の資金繰りの改善に重要な貢献をしています17。とくに、市場では、担保要件の緩和措置について、金融機関が担保不足のために資金調達が困難になる状況を改善しており、2012年2月に実施された3年物LTROの応札の増加につながったと評価する声が多いようです。3年物LTROの応札状況をみると、第1回目が523先で4,892億ユーロ、第2回が800先で5,295億ユーロとなりました。これらの措置により、短期金融市場は落ち着きを取り戻して、金利は低下しています(図表10、11)。また2011年後半から欧州系金融機関の債券発行が困難になっていましたが、一部の金融機関では無担保債を含めて発行が再開されています(図表12)。イタリアやスペインの国債利回りの(ドイツ国債利回りに対する)スプレッドも低下しました。市場では、こうした欧州系金融機関の資金繰りの改善を受けて、ユーロベースのデレバレッジの加速も回避されたとの指摘も聞かれています。ECBによる4月のローンサーベイでも、金融機関の貸出基準の厳格化の程度が和らいでいることが明らかになっています18。
- 15 不測の事態への対応措置として、市場の状況によって必要とされる場合に、各国・地域においてこれらの中央銀行のいずれの通貨でも流動性供給を行えるよう、各中央銀行間でそれぞれ時限的なスワップ取極を締結することにも合意しています。
- 16 適用金利についてECBは、"the rate applied will be fixed at the average of the rates in the main refinancing operations over the life of the relevant LTRO" と公表文の中で説明しています。
- 17 担保要件の変更については資産担保証券(ABS)に対する格付け要件をトリプルA格からシングルA格へ引き下げています。また、一時的な措置としてユーロ圏の各加盟国中央銀行が独自に貸出債権等の適格担保基準を設定することを認めています。
- 18 とはいえ、ECBの「中小企業の資金調達調査」では、中小企業側からみた銀行の貸出条件は、金利水準の引き上げ幅が縮小している一方、その他の条件は全体的に厳格化したことを明らかにしています。
最近の欧州の金融資本市場の動向
最近の欧州債務問題の再燃によって、欧州のドル調達市場では幾分緊張が高まっており、市場金利は少し上昇しています。しかし、前述の6中央銀行によるドル流動性供給オペレーションを拡充する前と比べて、依然落ち着いた状況にあるといえます(前掲図表9)。また、ユーロ建ての短期資金調達市場も比較的落ち着いているようです(前掲図表10、11)。しかし、ギリシャのほか、ポルトガル、イタリア、スペイン国債の対ドイツ国債スプレッドは、ドイツ国債の金利が「質への逃避」需要の急増に伴って史上最低水準まで低下していることもあって、拡大しています(図表13)。スペインでは、金融機関の不良債権問題に対する懸念等から、一部の金融債のクレジットスプレッドも拡大しています(図表14)。株価については、ギリシャの政治情勢の混迷やスペインの金融システム不安が再燃する中で、ユーロ圏全体、ドイツ、英国の株価も下落傾向にあります(図表15)。こうした状況のもと、私自身は、欧州の政治経済情勢が金融資本市場に及ぼす影響については、今後もとくに注視していきたいと思っています。
5.欧州債務問題のわが国への影響と日本銀行の金融政策
最後に、わが国経済・物価情勢について日本銀行の見解を簡単に紹介し、そのなかで欧州債務問題をどのように位置づけているのかご説明いたします。
わが国の経済・物価見通しとリスク要因
わが国の最近の経済動向をみますと、なお、横ばい圏内にありますが、前向きの経済活動に拡がりがみられるなど、持ち直しに向かう動きが明確になりつつあります(図表16)。先行きも、海外経済が成長率を高めるもとで、震災復興関連需要が強まるにつれて、2012年度前半にかけて緩やかな回復経路に復していき、2012年度全体ではやや高めの成長率となる見込みです。その後、2013年度についても、復興需要の景気押上げ効果の減衰から前年対比幾分減速するものの、潜在成長率を上回る成長が続くと考えられます(図表17)。
この間、物価については、消費者物価の前年比では、2009年8月を底に、雇用環境や設備の稼働状況が改善するもとで、2009年末頃から下落幅の縮小を続け、最近ではおおむねゼロ%で推移しています。国際商品市況については、足もとにかけて欧州債務問題や世界経済減速に対する懸念等から弱含んでおります。先行きについては、消費者物価の前年比は、企業・家計または民間部門の中長期的な予想物価上昇率が安定的に推移するとの想定のもと、マクロ的な需給バランスの改善から、2013年度後半にかけて0%台後半となり、その後、当面の『中長期的な物価安定の目途』(後述)である1%に遠からず達する可能性が高いと考えています。
こうしたわが国の経済・物価の中心的な見通しに対するリスク要因については4月末に発表した『展望レポート』(経済・物価情勢の展望)に詳細を記していますが、経済については、(1)海外経済、(2)復興需要を巡る不確実性、(3)企業や家計の中長期的な成長期待に関する不確実性、(4)わが国の財政の持続可能性の四つ、物価については、物価固有の要因として、(1)企業や家計の中長期的な予想物価上昇率の動向、(2)輸入物価の動向の二つがあげられます。なかでも、私自身は、(1)海外経済のなかのギリシャ再選挙の行方を含めた欧州債務問題の動向を重視しています。
欧州債務問題がわが国に及ぼす影響
欧州債務問題がわが国に及ぼす影響については、「貿易」、「金融」、「為替」の三つのチャネルから考える必要があると思います。「貿易チャネル」については日本からユーロ圏に向けた輸出額は全体の1割程度であるため、直接的な影響は限定的なように見えます(図表18)。むしろ欧州を最大の貿易相手とする中国など第三国での貿易・直接投資の停滞と景気減速というチャネルを通じて、わが国の貿易を減退させる可能性があると見ています(図表19、20)。
「金融チャネル」については、邦銀のドル調達市場と金融資本市場はいずれも落ち着いています。ドル調達市場については、邦銀は元来欧州の周縁国への投融資が少なく財務基盤も相対的に健全であることからドル調達に問題はありません。確かに、2011年夏から欧州債務危機が深刻化した際には、欧州系金融機関ほどではありませんが、邦銀が直面するドル調達金利も若干上昇しました。しかし、先ほども指摘しました6中央銀行の協調行動の一環としてドル流動性供給オペレーションの貸出金利を半減させてからは、市場は落ち着いた状態が続いています。なお、最近、ドル調達コストには下げ渋りの動きがみられていますが、総じて落ち着いた状況に変化はみられていません(図表21)。この間、短期金融市場は、落ち着いた状態を維持しています(図表22)。国債の利回りについては、安全資産としての日本国債の需要が高まっていることもあって、長期国債の利回りがさらに低下しています(図表23)。社債の発行スプレッドも、比較的低い格付けの銘柄を含めて、1年前と比べて低下しています。しかし、株価は、先ほども欧州株価のところで指摘した理由や米国経済指標の予想対比下振れ等によって、下落しています(図表24)。
「為替チャネル」については、世界金融資本市場が不安定化すると、消去法的に国際通貨である円が安全通貨として需要される傾向があります(図表25)。こうした傾向の背景には、グローバル投資家のリスクテイク姿勢の変化が為替動向とより密接に関係するようになっていることが指摘できます。最近の為替動向をみると、欧州債務問題の再燃により投資家のリスクテイク姿勢が総じて慎重化していることもあって、ユーロ・円相場を中心に、一頃に比べやや円高で推移しています。ユーロ円相場については、先ほど述べたように、欧州における投資家の「質への逃避」の動きから、2年物ゾーン以下のドイツの国債利回りが日本の利回りを下回る状態に転じていることなども影響しているとみています。円高は、長期化すれば企業マインドにマイナスの影響を及ぼし、景気下押し圧力となる可能性もありますので、その点からも欧州の政治経済情勢には注目しています。
日本銀行のこれまでの対応
次に日本銀行の金融政策についてお話しします。先ほどお話しいたしました経済・物価見通しを決定した4月27日の金融政策決定会合において、日本銀行は、金融緩和を一段と強化することを決定しました。以下では、それに先だって、2月に決定した金融緩和強化の枠組みについて簡単にご紹介した後で、4月末の政策決定の内容を含めて、最近の金融政策運営についてご説明したいと思います。
日本銀行では、かねてより、デフレからの脱却がわが国経済にとって重要な課題であるとの認識にたち、強力に金融緩和を進めてきました。2010年10月には『包括的な金融緩和政策』を導入し、その後、金融緩和を段階的に強化してきました。しかし、こうした日本銀行のデフレ脱却に対するスタンスが分かりにくいとの声も聞かれていました。そこで、2月の金融政策決定会合において、(1)『中長期的な物価安定の目途』の導入、(2)金融緩和姿勢の明確化、(3)資産買入等の基金の増額の3点を決定いたしました(図表26)。
もともと日本銀行では、包括的な金融緩和政策のもとで、(1)実質ゼロ金利政策を、(2)『中長期的な物価安定の理解』に基づいて物価安定が展望できる情勢になったと判断できるまで、継続するコミットメントを行ってきました。しかし、この『中長期的な物価安定の理解』は、9人の政策委員が、各々物価が安定していると理解する物価上昇率の範囲を集計して示していたため、目指す物価安定の具体的なビジョンが分かりにくいとの批判がありました。そこで、今年2月は、これを日本銀行自身の判断として示すべく、「消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域、当面は1%を目途」という形に変更しました。そのうえで、この『中長期的な物価安定の目途』に基づき、実質的なゼロ金利政策と(資産買入等の)基金による資産買入れ等の措置により、強力な金融緩和を推進していくとして、積極的な緩和姿勢を改めて明確化しました。そして、こうしたコミットメントを実際の行動でも示すべく、同基金を10兆円増額して基金規模を65兆円に拡大したわけです。
こうした金融政策運営の枠組みのもとで、4月末の決定会合では、『中長期的な物価安定の目途』を踏まえて、さきほど述べました経済・物価情勢の詳細な分析・検討を行ったうえで、金融緩和の強化を決定しました。具体的には、同基金について合計5兆円程度増額して70兆円規模といたしました19。金融緩和を強化した理由は、展望レポートでお示しした標準的・中心的な経済・物価見通しの実現可能性をより確実なものにしたいという思いからです。この点、私自身は、わが国経済・物価見通しに対する不確実性が、とくに欧州債務問題を中心に依然として高いと認識しています。そこで、わが国経済において前向きの経済活動が広がってきたタイミングを捉えて、これらの動きをより確実にするために、そして同時に、日本銀行の金融政策上のコミットメントに対する揺るぎない意思を示すためにも、適切だと判断したわけです。
- 19 長期国債のほか、ETF(指数連動型上場投資信託受益権)を2千億円、J-REIT(不動産投資法人投資口)を百億円の買い入れ増額を決めています。また、買入れ対象とする長期国債および社債の残存期間について、従来の「1年以上2年以下」を「1年以上3年以下」に延長しています。基金の増額については、年末までに既決定分65兆円を達成したうえで、70兆円への増額は2013年6月末を目途に完了する方針です。
成長力強化に向けて
最後に、先進諸国・地域の幾つかの主要中央銀行が共通に直面している問題について指摘しておきたいと思います。それは、金融緩和政策によってきわめて緩和的な金融環境を維持していても、それが期待したように企業・家計の投資や消費の増加につながらないため、実体経済の拡大をなかなか促せていないということです(図表27)。いずれの国・地域も構造的な要因がその背景にありますが、国・地域によって事情が異なっています。欧州の場合は、すでに説明したように財政再建・経済改革がもたらす短期的な内需縮小や銀行のデレバレッジという問題があって、域内全体の貸出増加には時間を要する見通しです。わが国については、1990年代半ばから就業人口の減少に直面しており、それが潜在成長率の押し下げ圧力をもたらしています。こうした状況で成長を高めていくには、この押し下げ圧力を大きく上回る(就業人口1人当たりの)生産性の改善が必要です。しかし、そのために必要な経済改革や経済構造調整がなかなか進んでいません。財政・社会保障に関する問題も将来見通しの不確実性をもたらす大きな要因となっており、実体経済が拡大しにくい状況をつくりだしている可能性が高いと思います。こうした背景に加えて、世界金融危機、東日本大震災、欧州債務危機、タイの洪水の影響等の様々なショックも重なり、企業・家計の成長期待が高まっていないことも、緩和的な金融環境にありながらも貸出が伸びず、長くデフレから脱却できない状況をもたらしてきた要因であると思います。
こうしたなかで、日本銀行では先ほど述べたようにデフレ脱却に向けて真剣に取り組んでおります。そのうえで、デフレ脱却には平行して成長力強化の努力を行うことが不可欠です。そのため、企業が現在の緩和的な金融環境を活用して前向きの取組みを行うとともに、金融機関がこうした企業の取り組みをニーズに合った金融サービスを提供することでさらにしっかり支えていくこと、政府が民間の潜在的な力を伸ばしていくビジネス環境を整備することが重要だと思います。日本銀行としても、中央銀行の立場から、わが国経済の成長力強化のために、2010年から『成長基盤強化を支援するための資金供給』を実施しており、本年3月、4月に成長支援資金供給の拡充策を決定しました(図表28)。日本銀行としては、引き続き成長基盤強化支援のために、中央銀行としてできる限りの貢献をしっかり果たしていきたいと考えています。
最後に、本日は、証券経済学会の会員の皆様の前でこのようにお話しさせていただく機会を与えていただきまして、再度、心より御礼申し上げます。また、同学会の一層の発展を心より願っております。ご清聴頂き、誠にありがとうございました。