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【講演】成長力の強化に向けて:日本経済の課題

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読売国際経済懇話会における講演

日本銀行総裁 白川 方明
2012年9月6日

目次

1.はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は読売国際経済懇話会でお話しする機会を頂き、誠に光栄に存じます。

現在、世界経済も日本経済も多くの挑戦課題に直面しています。振り返ってみると、米国の住宅価格がピークを付けてから既に6年、サブプライム・ローン問題がパリバ・ショックというかたちで表面化してから5年、リーマン・ショックが発生してから数えても、ほぼ4年が経過しました。リーマン・ショック後、各国が積極的な政策措置を講じたことなどから、1930年代の大恐慌のような大きな落ち込みは回避することに成功しましたが、先進国のその後の景気回復テンポは第2次世界大戦以降経験したことのないような緩慢なものとなっています。

ちなみに、現在のGDPの水準はリーマン・ショック前の2007年の水準を100とすると、世界全体では113という水準ですが、先進国では102という低水準にとどまっています(図表1)。現在の状況を日本のバブル崩壊後との比較で言うと、タイミング的には1990年代半ばに相当しますが、今回の米国や欧州の実質GDPの回復テンポは、1990年代半ばにかけての日本と同じか、それよりも見劣りします(図表2)。しかも、先進国がきわめて積極的な政策を展開してきたにもかかわらず、そうした状況が現出しているというところに、現状の厳しさが表れています。

ちなみに、先進国の財政政策をみると、大幅な財政赤字を背景に政府債務残高が急増しています。金融政策の面では、ゼロ金利、低金利継続の約束、中央銀行のバランスシートの大幅な拡大、リスク性資産の購入等、異例の政策が続いています。こうしたもとで、長期金利は歴史的な低水準になっています。この間、ユーロ圏では、ソブリン危機と金融危機が併存するような事態が続いています。両者が併存するようなタイプの危機は発展途上国や新興国に固有の現象であるというのが戦後の常識でしたが、そうした常識は覆されています。

振り返ってみると、2000年代半ばにかけては、高成長、低インフレ、低金利が続くもとで、「大いなる安定(Great Moderation)」と言われていたことを考えると、様変わりの状況です。さらに、改めて過去25年間を振り返ってみると、1980年代後半の日本のバブル、1990年代後半のアジア金融危機、2000年代のグローバル金融危機をはじめ、世界的にバブルや金融危機の発生頻度が高まっています。

以上のような状況を背景に、近年は経済論議においても歴史に対する関心が高まっていますが、世界の経済や金融が大きな変化の中にあるのではないかという問題意識が高まっていることを反映しているように思います。仮に現在がそうした大きな変化の時期にあるとすれば、直面している問題に適切に対処するためには、歴史的な視点、中長期的な視点も重要であることを意味しているように思います。過去20年間の日本の経済成長率の低下にはバブル崩壊後の不良債権処理、急速なグローバル化への対応、急速な少子高齢化への対応の遅れが影響していることは、時が経つにつれて次第に明らかになってきました。もう少し早く事態の変化に気付き、そしてもう少し早く必要な対応策が採られてきていたら、その後の経済の軌道は現在とは異なっていたかもしれません。経済が持続的に成長するためには、中長期的な視点に立った対応が不可欠であるということは、実は日本が過去20年間の経験の中でもっとも強く学んだ教訓です。そうした思いから、本日は中長期的な視点を意識しながら、「成長力の強化に向けて:日本経済の課題」と題してお話ししたいと思います。

2.わが国の景気の現状

まず、話の出発点として、わが国の景気の現状と当面の見通しについて、お話しします。わが国経済をみると、世界経済が減速した状態から脱していない中で、外需はやや弱めの動きとなっていますが、一方で国内需要が復興関連需要などを背景に堅調に推移していることから、先月の金融政策決定会合では、景気は全体としては緩やかに持ち直しつつあると判断しました。実質GDPの成長率でみると、本年第1四半期は前期比年率で+5.5%、第2四半期は+1.4%と、上半期ではG7諸国との比較でみてもかなり高い成長率を記録しました。先行きについては、国内需要が引き続き堅調に推移し、世界経済が減速した状態から脱していくにつれて、緩やかな回復経路に復していくと考えられますが、そうした見通しの実現は、内需が堅調なうちに、世界経済が減速局面を脱するかどうかに大きくかかっています。

この点、内需については、エコカー補助金による政策効果など今後剥落する要素もありますが、高齢化対応を中心とする企業側の需要掘り起こし努力など、より基本的な要因も寄与しているように思います。また、震災復興関連でも、被災した設備・住宅の修復や建て替え、ペントアップ需要にとどまらず、家計の防災意識や企業の業務継続・耐震意識の高まり、再生可能エネルギー関連など、新たな分野での需要が生まれています。このように、内需の堅調さには一定の持続性が見込まれますが、本年夏の弱めの賞与など注意すべき材料もあります。

一方、海外経済の減速はやや長引いており、それを受けて輸出や鉱工業生産は弱めとなっています。先月の会合ではそうした状況を踏まえ、「輸出は持ち直しの動きが緩やかになっており、生産も足もと弱めとなっている」と判断を下方修正しましたが、その後発表された7月の輸出、生産の数字も弱めの動きとなっています。このように、わが国の景気の先行きには様々な不確実性があります。そうした景気の短期的な見通しについては、つい最近お話しする機会もあったので、本日は中長期的な視点も意識しながら、今後の景気・物価の動向を見通したり、政策運営を行う際に重要と考えられる幾つかのテーマについてお話をしてみたいと考えています。

取り上げるテーマは以下の6つです。第1はリーマン・ショック以前の日本の景気回復メカニズム、第2は世界経済の現状と先行き見通し、第3は日本の成長力、第4はデフレ問題、第5は円高の問題、第6はわが国財政の問題です。以上の6つのテーマについてお話しした後に、日本銀行の政策運営の考え方についてご説明します。

3.リーマン・ショック以前の日本の景気回復のメカニズム

それでは、第1のテーマ、すなわち、リーマン・ショック以前の日本の景気回復の背景から説明します。なぜ、このテーマを最初に取り上げるかと言うと、リーマン・ショック後の景気回復のプロセスを考えるうえで、幾つかのヒントを提供していると思うからです。内閣府の景気基準日付によると、前回の景気拡大は2002年1月に始まり、2008年2月に終わっています。この間の平均的な成長率の水準は過去と比べて高かった訳ではありませんが、景気拡大の期間としては6年1ヶ月と、「いざなぎ景気」を超える戦後最長の景気拡大でした(図表3)。この景気の回復や拡大を可能にした要因としては以下の3つが挙げられます。

第1は、バブル崩壊後の日本経済の大きな重石となっていたバランスシート調整が終わったことです。特に、2000年代初頭に過剰債務が解消したことの影響は大きかったと言えます。

第2は、世界経済の高い成長が長期にわたって続いたことです(図表4)。2004年からリーマン・ショック前までの世界経済の平均成長率は+5.0%でしたが、これは1990年代の平均成長率+3.0%をかなり上回るものでした。この時期は物価上昇率も低く、先ほども触れたように、「大いなる安定」という言葉がよく使われました。そのもとで、経済の先行きに関して楽観的な見方が世界的に拡がり、米欧では不動産ブームや耐久消費財需要の盛り上がりがみられました。金融面では、金融機関のリスクテイク姿勢が積極化するもとで、レバレッジの急拡大、すなわち信用の急膨張が生じました。今から振り返ってみると、この時期の世界の高い成長率のすべてとは言いませんが、かなりの部分は未曾有の信用バブルに支えられた景気拡大でした。

第3の要因は円安による輸出の増加です。為替レートは量的緩和の前半期は概して円高傾向で推移しましたが、2005年以降、特に量的緩和を解除した2006年以降2007年にかけて円安傾向で推移しました(図表5)。この円安の進行は高い成長率を背景に海外の金利水準が引き上げられる中で、日本では超低金利が続いたこともあって、いわゆる円キャリートレードが活発に行われたことなどを反映しています。こうした円安の進行にも支えられ、自動車関連や資本財・部品を中心に輸出はこの時期に高い伸びを続けました(図表6)。

リーマン・ショック発生後は、上記の3つの要因のうち、世界経済の高成長と円安という要因はなくなりました。ちなみに、リーマン・ショック前の2007年を100として、その後の実質GDPの推移をみると、わが国の現在の水準は、99と、リーマン・ショック前の水準をなお回復していません。国際比較をすると、英国は97、ユーロ圏は99、米国は102ですので、先進国の中では真ん中辺りに位置しています(図表7)。ただし、一人当たり実質GDPでみると、少しイメージが異なってきます。どの国・地域もリーマン・ショック前の水準を下回っていますが、日本はその中ではもっとも落ち込み幅が小さくなっていますし、生産年齢人口一人当たり実質GDPでみると、日本だけはリーマン・ショック前の水準を上回っています。このことは急速な高齢化の影響の大きさを物語るものですが、この点については後でお話しします。

4.世界経済

次に、第2のテーマである世界経済の現状と先行き見通しに移りたいと思います。世界経済は当面のわが国の景気を左右するもっとも大きな要素です。世界経済は、昨年後半以降、欧州債務問題を主因に減速に転じ、現在もなお減速局面から脱していません。緩和的な金融環境は先行きの景気回復を支える要因ですが、回復のタイミングを含めて様々な不確実性が存在します。

世界経済の現状と当面の見通し

まず、米国ですが、バーナンキ議長の最近の講演の表現を借りると、3つの「逆風(headwinds)」、すなわち、住宅、財政、そして欧州債務問題に起因する景気抑制要因が働いています。このうち、住宅の逆風については、調整が徐々に進みつつあることは明るい材料ですが、なお重石として作用していることには変わりはありません。財政についてはいわゆる「財政の崖(fiscal cliff)」が問題となっており、景気回復のペースには不確実性が大きいと認識しています。

欧州は、現在、ソブリン債務危機の最中にあり、景気は停滞した状態が続いています。2010年以降、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルが相次いでEUやIMFから金融支援を受けることになったほか、問題はスペインやイタリアといった南欧の大国にも波及しています。これら諸国の国債利回りの上昇、すなわち国債価格の下落は、欧州系金融機関の資産内容を悪化させ金融システムの不安定化を招きました。これが、企業や家計が直面する金融環境さらにはマインドを悪化させ、経済活動を委縮させる下押し圧力となっています。そして、実体経済の悪化や金融システム不安は、歳入の減少や金融機関への支援負担増を通じて財政問題にフィードバックされます。このように、欧州では、財政、金融システム、実体経済の間の負の相乗作用が作動するという困難な状況に陥っています。

最後に中国ですが、減速した状態がやや長引いています。中国経済については、インフラ投資や不動産販売など内需の一部で改善の兆しがみられ始めていますが、持続可能な成長経路に順調に移行できるかどうか引き続き注視していく必要があります。先行きの中国経済を考えるうえで、当面のポイントのひとつは、ウェイトの高い欧州向け輸出の動向です。金融緩和、インフラ投資の前倒し執行、消費喚起策などの政策措置や最近のインフレ率低下による実質所得増加の効果に関する評価も重要なポイントです。さらに長い目でみると、もっとも重要なポイントは高度成長から中程度の巡航速度の成長への安定的な移行に成功するかどうかということです。日本の高度成長は1950年代半ばに始まり1970年代初頭におわりましたが、この間の平均成長率は+9.7%と、1990年以降の中国の平均成長率+10.1%とほぼ同じです(図表8)。日本もそうでしたが、高度成長から安定成長への円滑な移行は決して平坦な道ではありません。

そうした観点から幾つかの指標について日中の比較をすると、現在の中国の一人当たりGDPは5,500ドル程度であり、日本の1970年代半ばに相当します。GDPに対する投資比率をみると、現在の中国は高度成長期の日本の水準をかなり上回っています。労働力や人口動態の面では、農村部における余剰労働力が解消する、いわゆる「ルイスの転換点」と生産年齢人口の動向が重要です(図表9)。「ルイスの転換点」が到来すると、賃金に上昇圧力が高まるとともに、労働生産性の上昇ペースが鈍化します。中国経済がこの転換点を迎えたかどうかについては議論は分かれますが、生産年齢人口については2015年頃から減少に転じ、その後速いペースで高齢化が進むと予想されています。わが国では、「ルイスの転換点」から生産年齢人口の減少までの間に30年程度の間隔がありましたが、中国経済においては、こうした変化が短期間の内に生じる可能性も指摘されています(図表10)。

信用バブル崩壊が世界経済に及ぼした影響

米国、欧州、中国の景気は、今述べたように、それぞれの固有の要因によって変動している面もありますが、同時に、各国・各地域に共通する要因にも左右されています。その意味では、世界経済を大きく括って巨視的に捉えるというアプローチも重要です。この点では、2000年代半ばにかけての世界的な信用バブル崩壊後の調整が重要なポイントとなります。米国の逆風についても、住宅はバブル崩壊によるものですし、「財政の崖」の問題も、多くの部分はバブル崩壊の後遺症として捉えることができます。欧州の場合も、米国のサブプライム・ローン問題により欧州系金融機関が多大な損失を被ると同時に、幾つかの欧州周縁国の不動産バブルが崩壊し、政府や金融機関のバランスシートに深刻な問題が生じました。欧州についてはこれに加え、通貨統合という欧州独自の要因がバブル崩壊への対応を複雑かつ困難にしていると整理することができますが、この点については後ほど触れることにします。新興国経済にしても、固有の要因により成長ポテンシャルが実現したという面は大きいと思いますが、先進国のバブル的な景気拡大とその崩壊の影響から無縁ではありません(図表11)。

このように、先進国と新興国で、直面する問題の具体的な現れ方には違いがありますが、共通項であるバブル崩壊の影響という切り口でみた場合、政策運営や企業経営を考えるうえで意識すべきことは何でしょうか。この点では、金融危機を分析したラインハート教授とロゴフ教授の研究が参考になります1。両教授はわが国のバブルの経験を含め、北欧の銀行危機、アジア通貨危機など、戦後発生した14か国の深刻な金融危機を対象とした分析を踏まえ、金融危機後、一人当たりの実質GDPは、ピークから約2年間でボトムに達し、金融危機前の水準を回復するまでには平均で4.4年間を要することを示しています。

こうした過去の経験や現在展開している事態、すなわち、米欧で大きなバブルが崩壊し、日本や新興国も含めて新たな成長モデルの構築にはおのずから時間がかかることを踏まえれば、世界経済の成長が緩やかなものにとどまる状況は、少なくともしばらくの間は続くと認識しておく必要があるように思います。その場合、以前の基準でみれば物足りないと感じられる程度の成長であっても、それをさらに引き上げるためにマクロ経済政策で無理を重ねても、成長率はあまり高まらず、むしろ様々な歪みが生じる可能性があります。マクロ経済政策は、その時々の経済構造を与件として持続可能な成長を実現することに最大の努力を払い、その間に中長期的な成長率を引き上げるために、各国・各地域が経済財政の構造改革を進めることが、リーマン・ショック後の世界各国に概ね共通した課題だと思います。この面での具体的課題は国によって異なります。新興国は外需依存の度合いをさらに低下させ、潜在的な拡大の可能性の高い内需を中心としたバランスの良い成長を目指す必要があります。また、日本だけではなく、多くの先進国やアジア諸国の一部では、それぞれ程度の差はあるにせよ、人口高齢化への対応が大きな課題になってきています。そして、資源・エネルギー分野のイノベーションは、世界経済全体の持続的成長のために、人類が英知を集めて取り組むべき課題です。

  • 1  Reinhart, Carmen M., Kenneth S. Rogoff. 2009 This Time Is Different: Eight Centuries of Financial Folly. Princeton, NJ: Princeton University Press

欧州債務問題の現状と課題

このように現在の世界経済を考えるうえでの大きなキーワードはバブル後の調整ですが、欧州債務問題については、そうした要因だけではカバーできない大きな問題ですので、ここで、この問題についても簡単に触れることとします。

1999年のユーロの発足以降、単一通貨のもとで、一部の国が経済の実力以上に低いコストで資金を借り入れることができるようになった結果、対外債務が大きく積み上がりました。こうした国々では生産性の向上を上回るスピードで賃金が上昇し、結果的に産業の競争力が低下しました。ただ、ユーロ圏の場合には、単一通貨を採用しているがゆえに、競争力を失った国が為替の減価によって均衡を回復する、あるいは厳しい調整圧力を和らげる、という道が閉ざされていることにより、問題の解決が一段と難しいものになっています。

こうした状況に対して、欧州中央銀行(ECB)は期間3年、金額無制限の資金供給オペを2回にわたって実施したほか、日本銀行を含む世界の中央銀行はドルなどの通貨の供給体制を整えました。こうした中央銀行の対応等により、リーマン・ショックの時のような金融市場の大混乱は回避されていますが、潤沢な資金の供給はあくまでも「痛みを和らげる」ないし「時間を買う」措置であり、それだけで問題が解決する訳ではありません。現在問題となっている財政、金融システム、実体経済の間の負の相乗作用を断ち切っていくには、以下の取り組みを加速していくことが必要です。

第1に、財政に問題を抱える国々が、抜本的な財政再建や、労働市場改革や金融システムの安定・強化などの構造改革を進めていくことです。

第2に、欧州全体として経済統合の将来像を明確にし、持続性のある単一通貨圏を再構築していくことです。現在、欧州では、「銀行同盟」への取り組みの一環として、域内単一の銀行監督メカニズムの創設に向けた検討を進めつつあり、この設立を条件に、欧州安定メカニズム(ESM)が金融機関に対して直接資本を注入することを可能とする方針が示されています。また、高い財政規律を有する将来の財政統合に向け、具体的かつ明確な期限を設けた工程表の作成も始まっています。

これらは、従来からユーロという「通貨統合」の先に意識されてきた課題であり、大きな方向性は各国の関係者間で共有されていると思います。ただ、欧州の経済・社会・政治の根幹に関わる問題だけに、解決すべき課題は多岐にわたり、短期間で合意を形成することは難しい面があります。欧州の通貨統合は、その難しさを承知のうえで、政治経済の統合を通じて域内の平和、繁栄、安定を実現するという、欧州の人々が何十年にもわたって持ち続けてきた壮大なビジョンのもとで進められてきたものです。こうしたビジョンの具体化には、もともと強い政治的な意思が不可欠です。欧州が歴史の中で培ってきた対応力と各国の相互信頼を活かしながら、問題の根本的解決へ向けて果断に取り組んでいくことを強く期待しています。

5.成長力の問題

日本の成長力

以上、世界経済について議論してきましたが、次に、国内に目を転じ、第3のテーマである日本の成長力、すなわち、潜在成長率に話題を移します。潜在成長率が大体どの程度であるかについて感覚を有することは政策運営上も企業経営上もきわめて重要です。と言うのも、現在、日本の需給ギャップはマイナス2%程度まで縮小しており、この先10年、20年という期間の平均的な成長率はほとんど潜在成長率に規定されるからです。金融政策や財政政策によって成長率が左右されるのは、基本的に需給ギャップに対応した部分であり、潜在成長率自体を引き上げることはできません。

ここで潜在成長率について見当をつけるためにわが国の実質GDP成長率を長期時系列で振り返ってみますと、1980年代には4%台半ばであったのが、1990年代には1%台半ば、2000年代には0%台半ばと、次第に低下してきています(図表12)。経済成長率は就業者数の伸びと就業者一人当たりの実質GDPの伸び率、すなわち、付加価値生産性の伸びに分解できます。1980年代から1990年代にかけての実質GDP成長率の低下は付加価値生産性の伸びの低下による部分が目立ちます(図表13)。これは主としてバブルの後遺症であり、バブル期に膨れ上がった設備や債務などの過剰の解消に伴う経済活動の停滞が大きかったと考えられます。一方、1990年代から2000年代にかけての成長率の低下をみると、付加価値生産性の伸びの低下は止まっており、成長率低下の主因は就業者人口の伸びがマイナスに転化したことに求められます。言うまでもなく、就業者数の減少は高齢化の進行を背景としています。

それでは、次の10年間はどうなるでしょうか。足もとの男女別、年齢別の労働参加率を前提にすると、将来の就業者数の伸びはかなり正確に計算できます。それによると、2010年代は−0.6%、2020年代は−0.8%と減少します。付加価値生産性については取り敢えず過去20年の平均は+0.9%となりますが、バブル崩壊による影響の残る1990年代を除き、2000年から2008年という比較的良好な時期を取ると、+1.4%となります。そこで、付加価値生産性の伸び率を+1.0%〜+1.5%と仮定して機械的に計算すると、成長率は2010年代は+0.4%〜+0.9%、2020年代は+0.2%〜+0.7%という計算になります。このような計算はもちろん機械的な計算に過ぎませんし、私自身もこの数字を絶対視している訳ではありませんが、この先、現状を変える努力をしなかった場合の成長率のイメージを掴むうえでは、それなりに有用であると思っています。

日本の成長力を高めるための方策

成長率を構成するふたつの要素のうち、議論が分かれ得るのは付加価値生産性の前提の置き方であろうと思います。日本の就業者当たりの付加価値生産性の伸びは現状でも決して海外先進国に比べて遜色はなく、むしろ高い方です。もちろん、新興国に比べると低いことは事実ですが、これはキャッチアップの過程にある経済とそうでない経済の違いを反映しており、日本が高度成長期と同じような付加価値生産性の伸びを期待することは現実的ではありません。このように言うと、低成長を宿命として受け止めるべきだと主張していると誤解されるかもしれませんが、私の意図は決してそうではありません。

人口動態そのものを変化させることは、できるとしてもきわめて長い期間を要します。そうであれば、今後さらに高齢化が進むという現実を正面から受け止め、そのうえで、経済構造の変革を進める以外に、日本の活力を取り戻す道はありません。現在の低成長の本質は、人口減少や高齢化そのものにあるのではなく、そうした人口動態の変化に対応し、高齢化のもとでも高い付加価値を創造できる経済への変革が進まなかったことにあります。そのように考えると、成長力を高める方向性が明確になってきます。

第1に、労働参加率、すなわち生産年齢人口のうち実際に働く人の割合を高めることが必要です。そのためには、労働参加率を高める余地が大きい高齢者や女性が働きやすい環境を整備することに真剣に取り組むことが必要です。現状を放置した場合、先行き10年間の就業者数は年率−0.6%と見込まれますが、女性の労働参加率を概ねスウェーデン並みの水準まで引き上げることなどができれば、これをプラスの伸びに転化することが可能になります2

第2に、付加価値生産性の伸び率の低下を抑え、できれば少しでも高める努力をすることです。ここで強調したいことは、引き上げ努力の対象は付加価値生産性であるということです。この点、企業がいくら収益力を高めても、それがもっぱら人件費や仕入れ価格の抑制によるものである場合は、家計の所得や仕入れ先の収益が圧迫される結果、経済全体としての付加価値は増加しません。したがって、日本経済として付加価値の成長率を高めるには、内外市場でニーズの高い商品やサービスを開発し、これを新たなビジネスとして成功させ、付加価値生産性を高めることが必要となります。それには企業のチャレンジ精神が大きな役割を果たします。グローバル需要の取り込みや内需の掘り起こしを通じて付加価値の高い財・サービスを生み出すこと、そのために需要拡大の可能性を秘めた分野に、人、物、お金といった資源を移動させていくことが、企業に期待される最大の貢献です。そして、そうした企業の挑戦を引き出すために、規制緩和などの環境整備を積極的に進めなければなりません。既存の規制によって潜在的な需要が顕在化していない分野を成長分野に転換することは、日本経済の大きなフロンティアと言っても良いかもしれません。また、それと同時に、そうした企業のチャレンジを受け入れる社会の受容性もきわめて重要です。

6.デフレの問題

このような成長力強化の必要性についてお話ししますと、「それはそうだが、デフレからの脱却も重要ではないか」という反応も予想されます。もちろん、デフレからの脱却は重要ですが、このことの意味については、もう少し深く考えてみる必要があります。ここで紹介したいのは、日本銀行が無作為に抽出された回答者を対象に、毎四半期行っている「生活意識に関するアンケート調査」の結果です。この調査では物価の上昇や下落についての受け止め方を含め、国民生活に関連した様々な項目についてどう感じているかをお聞きしています(図表14)。

その結果をみますと、物価の上昇については8割強の方が「どちらかと言えば困ったことだ」と回答しています。物価の下落については、「どちらかというと好ましい」という回答が3分の1程度を占めています。数字については若干の変動はありますが、回答の傾向は非常に安定しています。一方、新聞をみると、国民の声としてデフレからの脱却が必要であるという記事を多く目にします。デフレとは「物価の継続的な下落」を意味することを考えると、このふたつの事実は矛盾する訳ですが、このことはどのように解釈すべきでしょうか。私は、その答えは「デフレ」という言葉が様々な意味で使われていることに求められるように思います。すなわち、ある人はデフレを「物価の継続的な下落」という意味で使う一方、別の人は「景気の悪いこと」という意味で使い、また別の人は「賃金が下がっていること」という意味で使っています。資産価格の下落をデフレという言葉で表現している人もいます。

只今紹介したアンケートの結果は、多くの国民は単に物価だけが上がることを望んでいるのではないことを示しています。実質成長率が停滞したままで単に物価だけ上がっても名目成長率は上昇しますが、それは、各種のコストが上昇し、そのコスト転嫁から物価が上昇するような場合であり、国民の生活水準は向上しません。多くの方々が望んでいる「デフレからの脱却」とは、単に物価さえ上がればよいということではなくて、企業収益や雇用・所得の増加など、より良い経済状態の実現を指しているものと理解されます。エコノミストの言葉に翻訳すると、実質成長率の上昇です。そして、実質成長率が高まる時には需給ギャップも縮小し、物価も上昇し、デフレは解消します。問題はどうすれば実質成長率が高まるかということになりますが、この点では、成長力強化の取り組みと金融面からの後押しの両方が必要だと思います。

7.円高の問題

為替レートの動向とその背景

ここで、当面の景気の問題とも関連し、また企業経営者の方からもっとも多く質問を受ける円高の問題——本日の第5のテーマですが——に議論を移したいと思います。リーマン・ショック後の為替レートの動きをみると、それまでの円安傾向から円高傾向へと流れが変わりました。貿易量で加重平均した実効為替レートでみると、円とスイス・フランが特に増価し、ユーロが減価しました(図表15)。ドルはリーマン・ショック後、増価する場面もみられましたが、均してみると、緩やかに減価しています。この間、韓国ウォンについてはリーマン・ショック後、大きく減価した後、現在も減価した水準で推移しています。

為替市場では毎日膨大な金額の取引が行われており、外為取引の98%は資本取引となっています(図表16)。その意味で、為替レートの変動要因としては、資本取引の動きが重要です。リーマン・ショック後の円高は2つの資本取引の動きを反映しています。第1は、先ほど触れたリーマン・ショック前に活発に行われていた円キャリートレードの巻き戻しです。リーマン・ショック前は日本の超低金利が目立っていましたが、リーマン・ショック後は海外金利も超低金利となりました。第2は、世界経済の先行き不透明感や欧州債務問題を巡る懸念等を背景に、グローバル投資家のリスク回避姿勢が強まり、相対的に安全な通貨と認識されている円が買われやすい地合いになったことです。欧州債務問題のような当面の差し迫った問題が生じているような状況のもとでは、過去の経常収支の黒字を反映し、対外純資産をきわめて多額に蓄積している国の通貨は安全通貨とみられているということです。

為替レートの変動の影響と対応

言うまでもなく、円高は経済・物価情勢に大きな影響を与えます。その影響の出方は、その時々の経済情勢によって、また、時間の経過によっても異なってきます。現状では、円高は輸出や企業収益の減少、企業マインドの悪化などを通じて、マイナスの影響が大きいと認識しています。もちろん、小売りなどの内需産業においては、製品輸入価格の低下などを通じてプラスの効果をもたらす面がありますし、現在のように、エネルギー関連の輸入が増加している局面では、コスト抑制効果があるのも事実です。しかし、そうした両方の影響を考慮したうえで、日本銀行としては、海外経済の先行きを巡る不確実性も大きい現局面においては、円高の経済・物価への影響については、マイナスの影響を及ぼす可能性の方をより強く意識する必要があると考えています。とりわけ、欧州債務問題を始め、海外経済の先行きを巡る不確実性が大きい現局面においては、企業の海外シフトの加速や、中長期的な成長期待の低下につながらないかどうかといった点も含め、注意が必要です。

いずれにせよ、為替レートは企業経営における重要な前提のひとつですので、為替レートの急激な動きは、企業の対応能力という点で問題となります。この点、例えば2000年代半ばにかけて為替レートが大きく円安に振れる中で、生産の国内回帰が起こり、海外生産比率の上昇ペースが一服しました。現在は円高に振れており、こうした為替レートのスウィングが加わった分だけ、企業の調整の痛みは大きくなっているように思います。

政府も日本銀行も、為替レートについては、G7等の声明でも謳われてきたように、経済のファンダメンタルズに沿って安定的に推移することが望ましいと判断しています。経済のファンダメンタルズから乖離した為替レートの変動に対しては、政府は、もっとも有効と判断するタイミングで為替介入を実施してきました。金融政策については、後ほどまとめてお話ししますが、日本銀行は海外経済の減速や円高の動きなどが先行きの日本の経済・物価に及ぼす影響も踏まえ、金融緩和を実施してきました。

なお、為替レートを円安方向に誘導することを目的として、日本銀行が外貨建ての債券を購入すべきではないかとのご意見を頂戴することもあります。しかし、これは為替介入そのものであり、わが国では為替介入は政府が行うということが法律で決まっています。したがって、この問題は政府の為替介入の是非というかたちで議論すべきことであると思います。

円高への対応という点では、政策当局と並んで、企業の対応が重要です。変動為替レート制度のもとで、為替レートは変動するという現実がある以上、内外の企業は様々な方法で、為替レートの影響を極力遮断するような経営努力を行っています。また、何よりの為替レート変動対策は競争力の強い商品・サービスの開発です。

このことを示すひとつの事例がスイスの経験です。スイス・フランは、過去10年間に、円以上に為替レートが上昇しましたが、この間の輸出金額は医薬品や時計を中心に、日本の輸出の伸びをはるかに上回っています(図表17)。競争力という観点から、日本の代表的な商品について、輸出入総額に対する純輸出金額比率、いわゆる国際競争力係数を計算すると、円高が進行するもとでも高い競争力を維持する品目がみられる一方で、円高が進行する以前から低下している品目もみられます(図表18)。

もちろん、短期的には為替レートの変動が現実の競争力に影響することは事実ですし、特に中小企業の場合には急速な円高への対応が難しい面があることは十分認識していますが、やや長い目でみた場合、グローバル化した経済で最終的に鍵を握る競争力とは、差別化された商品、付加価値の高い商品であると思います。

8.財政の持続可能性

次に、やや長いタイムスパンで考えた場合、日本経済にとって非常に重要なテーマである財政の持続可能性の問題——本日の話の第6のテーマですが——に議論を移します。

財政バランスが長期にわたって悪化した場合、財政の持続可能性を回復する方法は論理的にも、また歴史を振り返ってみても、3つしかありません。第1は、成長力の引き上げや歳出入の改革を行って、財政バランスを回復することです。第2は、国債の債務不履行、デフォルトです。第3は、インフレで帳消しにする方法です。仮に、歳出入の改革が行われなかったり、将来の財政バランスの改善が非現実的なほどの高い成長率の見通しに基づくものであれば、最終的に帳尻が合わない以上、投資家は他の2つの可能性、すなわち、債務不履行やインフレの可能性を考えてしまいます。国債の債務不履行は金融機関に多大な損失を与えることを通じて、金融システムの安定を損ないます。インフレは物価の安定を損ないます。どちらにしても、通貨の安定という経済や社会の安定のもっとも本質的な前提条件が失われることになり、持続的な経済成長に甚大な影響を与えます。そこまで極端な状況ではなくても、財政の持続可能性に関する不確実性が意識される経済では、企業や家計が将来に不安を抱き、その結果、支出が抑制されることになります。経済の持続的な成長を実現するうえで、財政の持続可能性を維持することが重要であるというのは、以上のような理由によるものです。

この点に関連し、私がよく受ける質問は、「わが国では大幅な財政赤字が続き、政府債務残高の対GDP比率は、国際的にみてもきわめて高い水準であるにもかかわらず、国債発行は円滑に行われ、長期金利も低位で安定しているのは何故か」という質問です。理由としては、2つ考えられます。第1の理由は、「日本は最終的に財政再建にしっかり取り組む意思と能力を有している」と投資家が信頼しているというものです。第2の理由は、「金利はこれまで安定してきたのだから、これからも安定しているだろう」と投資家が漠然と予想しているというものです。今では信じられないことですが、実際、ユーロ圏では数年前まではどの国もドイツと同じ金利水準で国債を発行していました。

私は、厳しい財政状況が国債金利の上昇というかたちで表面化していないことのもっとも本質的な理由としては、第1の理由、すなわち、財政再建に対するわが国の意思と能力に対する信認にあると考えています。ただし、意思と能力は最終的には実績で裏打ちされなければなりません。中長期的な観点から、財政健全化に向けた取り組みを着実に進めていくことについて、市場の信頼をしっかりと維持していくことはきわめて重要です。同時に、金融政策面でも、中央銀行が物価安定のもとでの持続的成長を目的として運営されているということに対する信認維持がきわめて重要であり、日本銀行は財政ファイナンスを目的とした国債買入れは行いません。

ところで、財政バランスの改善という点に関しては、何よりも名目成長率を高めることが重要であるという議論もしばしば聞かれます。しかし、この議論はややミスリーディングです。と言うのは、財政バランスが改善するかどうかは、名目成長率の上昇がどのようなかたちで実現するかによってまったく変わってくるからです。名目成長率の引き上げがもっぱら物価の上昇で実現する場合には、税収も増加しますが、人件費や物件費の増加から歳出も増加します。また、これまでは金利低下の過程で既往の高金利の国債が新規に発行される低利の国債に振り替わることによって、国債の金利支払総額は減少してきましたが、そうした効果も一巡し、今後はそうした効果に多くは期待できないと思われます(図表19)。そういう状況のもとで、物価が上がると国債の支払金利も増加し、歳出の増加要因となります。したがって、単に物価が上昇するだけでは財政収支は改善しません(図表20)。

これに対し、名目成長率の上昇が実質成長率の上昇による場合には、コスト増によって政府支出が膨らむということは起きないため、税収増加の分だけ財政収支が改善します。財政再建の鍵を握る名目成長率の上昇とは実質成長率の上昇です。そして、実質成長率が高まる時には物価も上がり、名目成長率も高まります。その意味で、成長力の強化は財政バランスの改善の観点からも重要です。

9.日本銀行の金融政策運営

強力な金融緩和の推進

最後に、以上お話しした内外経済の現状と課題を踏まえまして、日本銀行の政策運営についてご説明します。

日本銀行は、わが国経済がデフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰することがきわめて重要な課題であると認識しており、この課題を実現するために、「包括的な金融緩和政策」という枠組みのもとで、強力な金融緩和政策を実施しています。

この政策的な枠組みを導入したのは、約2年前、2010年10月です。導入に至った基本的な理由は、政策金利であるオーバーナイト・コールレートが実質的なゼロ金利水準になっている中で、さらなる緩和効果を生み出すためには、新たな工夫が必要であったからです。ひとつの工夫は、いわゆる時間軸政策、すなわち、先行きも実質的なゼロ金利政策を続けるという約束です。現在は、中長期的な物価安定の当面の目途、すなわち、消費者物価の前年比上昇率1%が見通せるようになるまで、強力に金融緩和を推進していくことを明確にしています3。もうひとつの工夫は、金融資産買入れなどを行う基金を設けたうえで、長期・短期の国債のほか、中央銀行としては異例ですが、CP、社債、指数連動型上場投資信託(ETF)、不動産投資法人投資口(J-REIT)といったリスク性資産を幅広く買入れることです。買入れによって長めの金利やリスク・プレミアムに働きかけることが狙いです。

資産買入等の基金の規模は、当初「35兆円程度」でスタートしましたが、累次の増額によって、現在は「70兆円程度」という水準まで拡大しています。現在、この「70兆円程度」に向けて資産の買入れを進めている途上にあり、8月31日時点の残高は約58兆円ですので、この先さらに10兆円以上の資産を買い入れていくことになります(図表21)。このように、日本銀行が基金残高を着実に積み上げていくということは、金融緩和の効果は今後さらに強まっていくことを意味しています。日本銀行としては、今後とも、資産買入等の基金の着実な積み上げを通じて間断なく金融緩和を進めていきます。

緩和的な金融環境とそれを活かすための施策

こうした強力な金融緩和のもとで、わが国では、東日本大震災や欧州債務問題といった強い逆風にさらされた時期を含めて、金融市場や金融システムの安定が維持されてきました。企業の資金調達コストが低下するとともに、資金のアベイラビリティに対する安心感も確保されています。実際、銀行の新規貸出約定平均金利は、短期・長期とも1%程度と、2000年代前半の量的緩和期をも下回る歴史的な低水準となっています(図表22)。こうしたもとで、企業の有利子負債にかかる平均支払金利は1.49%まで低下しており、これは企業の総資産利益率、すなわちROAが3.24%であることと比べ、きわめて低い水準です(図表22)。要すれば、企業は現在、自身の収益力に比べてはるかに低い金利で、量的にも十分な資金を借入れることができる状態にあります。

このように、わが国の金融環境は緩和した状態にあります。金融政策の効果が実体経済に伝わる波及過程のうち、第1段階である金融政策から金融環境への波及については、十分浸透していると言ってよいと思います。こうした金融環境が企業や家計に十分活用され、投資や支出が増加していけば、第2段階である金融環境から経済・物価への波及も強まることになります。

ここで重要になるのは、先ほど述べた成長力強化に向けた取り組みです。思い切った規制緩和によって国内の投資が魅力的になったり、企業の革新的な取り組みによって新しい市場や商品・サービスが創造されるようになると、成長率は高まります。そして、そうした実績が少しずつ積み重なってくると、企業収益や家計所得についての人々の予想も強まっていきますので、資金ニーズが高まり、緩和した金融環境が本来の需要刺激効果を最大限発揮できることになります。こうした好循環が始まれば、需給バランスの改善が一層明確化し、物価上昇率も高まりやすくなると考えられます。私は、わが国経済が、デフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰するためには、幅広い主体による成長力強化の努力と金融面からの後押しの両方が必要と常に申し上げていますが、その際に私の念頭にあるのは、このようなメカニズムです。

こうした成長力強化の主役はあくまで企業です。それと同時に、企業が新たな市場の開拓へ挑戦しやすい環境を整えることも重要です。成長力強化という点では、日本銀行も2010年6月以降、「成長基盤強化を支援するための資金供給」という、中央銀行としてはかなり異例の措置を実施しています(図表23)。この措置は、わが国経済の成長に資する投融資を行う金融機関に対し、日本銀行が長期かつ低利の資金を供給することにより、金融機関の自主的な取り組みを進めるうえでの「呼び水」としての役割を果たすことを企図しています。昨年6月には、不動産や個人資産などの担保が乏しい企業にも成長資金の調達の道を開くため、動産や売掛債権を担保とするABL(Asset Based Lending)という、これまで日本ではあまり使われてこなかった融資形態の普及を、日本銀行の資金供給で支援することにしました。その後も本年3月および4月には、1,000万円未満の小口の企業向け投融資や、外貨建ての投融資も支援するように制度の拡充を行い、現在、制度全体の貸付枠は5兆5,000億円となっています。こうした措置を契機として民間金融機関の自主的な取り組みも拡がっており、目的としていた「呼び水」効果は得られていると考えています。「成長力を高めていくことが大事であり、そのために金融機関の取り組みも必要」という日本銀行のメッセージに、多くの関係者が共感して下さったと思っています。

このように、日本銀行は金融政策の面で様々な非伝統的な政策手法も開発しながら、中央銀行として最大限の努力をしています。中央銀行の政策については、金利や量を巡る金融政策に関する議論に世の中の関心は集まりがちですが、中央銀行の果たしうる貢献は、もう少し幅広いものです。現在、もっとも強く意識していることは、欧州債務問題が緊張度を高めた場合でも、金融市場や金融システムの安定をしっかりと維持していくことです。日本銀行としては、引き続き適切な金融政策運営に努めるとともに、欧州情勢を巡り神経質な状況が続いている国際金融市場の動向を十分注視し、わが国の金融システムの安定に万全を期してまいります。

10.おわりに

時間が残り少なくなってまいりましたので、話を締めくくりたいと思います。本日は非常に多くのテーマを扱ってきましたが、本日の話の中でもっとも強調したかったテーマが何かと問われれば、わが国として日本経済の成長力強化に向けた真剣な取り組みがきわめて重要であるということです。そうした取り組みを進めていく際にもっとも重要なことは、日本経済が直面している問題は成長率低下の問題であることを明確に認識することだと思います。この点についての認識は近年高まってきていますが、まだまだ十分とは言えません。冒頭、過去20年間の日本経済を振り返りましたが、成長率低下の原因である不良債権問題にしても急速な少子高齢化の問題にしても、認識は遅れ、その結果として、対応も遅れました4。成長力の強化については同様のことが起きないようにしなければなりません。

成長力強化に向けた取り組みを進めていく際、意識、認識と言う点で、もうひとつ大事だと思うことは、日本経済の強みも冷静に認識し、過度の悲観論に陥らないようにすることです。先ほど世界経済を論じた際、米国、欧州、中国の抱える課題にも言及しましたが、どの国や地域もそれぞれに困難な課題を抱えています。客観的にみると、我々は日本経済の潜在的な強さを過小評価している面もあるように思います。まず、わが国は世界の成長センターであるアジアに位置しています。金融の世界では、不良債権処理を2000年代初頭に完了したことから、日本の金融機関はいつの間にか、国際的にみて、むしろ信用度の高い金融機関となりました(図表24)。変化はチャンスでもあるという点は、わが国経済の内需の堅調さの中にも垣間みられます。すなわち、60歳以上の高齢層の消費が今や消費全体の4割強を占めるに至っていることや、震災を契機にエネルギー関連を含め様々な需要が出てきていることなどを踏まえますと、大きな環境変化は新たな市場を開拓するものでもあることを改めて感じます。わが国はバブル崩壊から約20年が経過しましたが、我々が日本経済の直面している問題を正確に認識し、成長力強化に向けて真剣な取り組みを進めて行けば、私は次の20年の姿は必ず変わってくると信じています。

本日は、長時間ご清聴ありがとうございました。

  • 4  不良債権問題について言うと、金融機関に対する公的資金投入が初めておおやけに議論されたのは1992年夏のことでしたが、これが大規模な公的資金投入というかたちで実現したのはバブル崩壊から8年程度経過した1998年のことでした。少子高齢化への対応についても同様のことが言えます。生産年齢人口が減少に転じたのは1996年のことでしたが、この頃はバブル崩壊の深刻な影響に苦しんでいた時期であり、一般国民はもとより、エコノミストの間でも、少子高齢化という人口動態の変化が日本経済に対して持つ意味の重さを、後に我々が実感するほどには、十分には認識できていませんでした。