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【挨拶】 日本銀行金融研究所主催2024年国際コンファランスにおける開会挨拶の邦訳

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日本銀行総裁 植田 和男
2024年5月27日

1.はじめに

今回で29回目となる日本銀行金融研究所の国際コンファランスに、識者の皆さまにご参加いただき、大変光栄に存じます。コンファランスの主催者を代表して、皆さまに心から感謝申し上げます。また、私の古くからの友人である、スタンフォード大学のジョン・テイラー教授には、2008年に、第一回前川講演者としてご登壇いただきましたが、今回、再び前川講演者として国際コンファランスにお越しいただけたことにも感謝申し上げます。

さて、この国際コンファランスはほぼ毎年開催されていますが、今年は、日本銀行の金融政策の「多角的レビュー」の一環と位置付けられているという意味で、ユニークです。このレビューは、過去25年間に実施されてきた様々な非伝統的金融政策手段についての理解を一段と深め、将来の政策運営にとって有益な知見を得ることを目指しています。そのため、今年の国際コンファランスは、「物価変動ダイナミクス」と「伝統的・非伝統的金融政策の効果」という2つのテーマを扱います。私達、日本銀行としましては、これらのテーマに関するさらなる知見を蓄積すべく、今日と明日の2日間にわたり、皆さまと活発な議論ができることを非常に楽しみにしています。ここではその導入として、日本銀行が最近実施した金融政策の枠組みの見直しについてお話したあと、過去25年間について私の振り返りを20分間程度に凝縮して述べたいと思います。

2.わが国におけるゼロ・インフレの罠と大規模金融緩和

最近の金融政策の枠組みの見直しについて

日本銀行は、今年3月の金融政策決定会合において、物価見通しが改善してきたこと等を踏まえて、これまでの非伝統的な金融緩和手段の大半を終了することを決定しました。具体的には、マイナス金利政策とイールドカーブ・コントロールの枠組みの撤廃、ETFやJ-REITの新規買入れの停止などです。同時に、フォワード・ガイダンスも終了しました。一つは、「物価安定の目標」を安定的に持続するために必要な時点まで「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を継続すること、もう一つは、消費者物価の前年比上昇率が安定的に2%を超えるまでマネタリーベースの拡大を継続すること、でした。こうした決定に至った経緯については、私が先月ピーターソン国際経済研究所で行った講演をご参照いただきたいと思います(Ueda, 2024)。

ゼロ・インフレの罠とゼロ金利制約

さて、過去を振り返りますと、日本銀行は、1990年代後半に非伝統的な金融緩和手段を導入しました。もっとも、2000から01年および2006から07年には、それが解除され、短期政策金利がプラスで推移する時期もありました。私は、こうした非伝統的な手段を初めて導入した時期と終了した時期に、日本銀行政策委員会委員を務めていたこともありますので、その有効性や限界をお話ししたいと思います。非伝統的金融政策の有効性や限界については、すでに多くの研究が存在しますが、冒頭で申し上げたとおり、日本銀行は、その経験の「多角的レビュー」を実施しているところであり、その結果は、今後公表する予定です。今日この場では、多岐にわたる非伝統的な金融政策を実施したにもかかわらず、日本がゼロ・インフレまたは低インフレから長きにわたり脱却できなかったのはなぜか、という何度も繰り返し問われたテーマについて、簡単にお話しします。というのも、この議論は、今回の国際コンファランスの序論になると思うからです。

図表1は、消費者物価指数(消費税率引上げ等の影響を除いたもの)前年比の後方3年移動平均をとることで、わが国の「ゼロ・インフレの罠(zero-inflation trap)」の様子をお示ししています。この指標によると、インフレ率は、1996年から2022年までの27年間もの間、マイナス1.0%からプラス0.7%の範囲にとどまり続けました1。この事象の主たる理由は、「ゼロ金利制約(Zero Lower Bound: ZLB)」にもとづくものだと思います。図表2でお示ししたとおり、オーバーナイト・コールレートは、1995年後半までには0.5%を下回る水準まで低下していました。つまり、ゼロ・インフレの罠が始まるまでには、日本銀行は、すでに経済を刺激するための短期金利に対する影響力を使い切ってしまっていた、ということです。

  1. この消費者物価指数は、消費税率引上げの影響などを除いた日本銀行スタッフによる試算値にもとづいています。

日本銀行による大規模緩和

もっとも、こうした主張に対する反論があり得ることも認識しています。日本銀行を含む多くの中央銀行は、経済を刺激するために様々な非伝統的な手段を導入しましたし、そのうちのいくつかは、先ほど述べましたとおり、最近まで日本では用いられていました。今回のコンファランスでも、こうした非伝統的な手段のうちのいくつかは、ZLBの障壁を克服するために有効であるとの議論があるでしょう。もっとも、日本銀行が長らくゼロ・インフレの罠から脱却できなかったという事実は、ZLBがもたらす困難の大きさについての一応の証左であるとも言えます。

また、日本銀行が採用した政策枠組みの展開について、いくつかの点でその時点で最適ではなかったと指摘する方もいるかもしれません。例えば、ゼロ・インフレの罠に陥った最初の数年間は、明示的なインフレ目標がありませんでした。日本銀行は、2000年に、ゼロや小さなプラスの値など、特定のインフレ率の水準を用いて物価安定を定義すべきか否かを検討しましたが、その当時は、コンセンサスには至りませんでした。2006年3月には、1%を中心値とする0~2%程度の範囲であれば、各政策委員の物価安定の理解と整合的であるとし、2009年12月には、0%以下のマイナスの値を許容しないことなど、それをさらに明確化しました。日本銀行は、最終的には2013年1月に、2%の物価安定の目標を導入しました。後知恵になってしまいますが、仮に明確なインフレ目標値が導入されていれば、例えば、2000年8月のゼロ金利政策解除に至るまでの議論の様相は、実際とは異なったものになったかもしれません。1999年4月の導入時における短期金利に関するフォワード・ガイダンスの内容をみると、日本銀行は、デフレ懸念が払拭されるまでゼロ金利を継続するとしていましたが、解除時点では、コア・インフレ率は、まだマイナス0.5%にすぎませんでした。その後のデフレをそのわずかな利上げだけのせいにするのは難しいと思いますが、このゼロ金利政策解除の経験は、その後に行われたフォワード・ガイダンスの有効性を弱めた可能性もあります。

もう1つ考えるべき点は、資産買入れを開始したタイミングです。日本銀行による積極的な長期国債の買入れは、図表1でお示ししたインフレ動向を踏まえると、比較的遅いものでした。日本銀行は、2001年3月の量的緩和政策の開始に伴い、以前よりも多くの額の長期国債を購入し始めたものの、図表3が示すように、その保有残高は、2013年に入るまでは、顕著に増えてはいませんでした。これとは対照的に、Fedの米国債保有残高は、世界金融危機への対応として、2009年初に急激に上昇し始めています。

ここで、注目すべき点としては、図表4でお示ししたとおり、米国の10年物国債金利は、Fedが大規模な資産買入れを開始した時点では4%近くもありましたが、日本の10年物国債金利は、1990年代後半にはすでに2%を下回っていたという点です。この事実は、もし2000年代初頭に日本銀行の国債買入れの増額が行われたとしても、果たして十分な効果があったのか、との疑念を生じさせます。

ゼロ・インフレの罠と低いインフレ予想の定着

日本銀行が困難に直面したもう一つの理由についても説明したいと思います。私は、低インフレが持続するという予想が定着したことが重要な意味を持ったと考えています。それは、経済主体の行動変化、とりわけ、企業の戦略的な価格設定行動の変化につながり、ゼロ・インフレの罠に陥っている期間を長引かせることになりました。今回の国際コンファランスで後ほど私の同僚たちが詳しく説明すると思いますが、企業は、他の企業が価格を引き上げないと思うと、コストや需要に多少の変化があったとしても、自らも価格(および賃金)を据え置くことが最善であると思うようになり、結果的に全体でみたインフレ率やインフレ予想がゼロ%付近に定着するようになります。こうした経済においては、ある均衡から別の均衡へ移るためには、非常に大きなショックが必要になる可能性があります。

このたび、日本銀行は、企業の価格と賃金の設定行動に関して多数の企業を対象に大規模なアンケート調査を実施しました。図表5では、そのうちの注目すべき点をお示ししています。ゼロ・インフレの罠に陥っていた期間では、企業の多くは、競争相手が値上げしていないので、自らも値上げできなかったと回答しています。もっとも、ここ最近の2年間ほどは、競争相手が値上げすることを理由に自らも値上げするという、逆の傾向もみられました。ここには、循環論法的な側面がありますが、重要な点は、こうした戦略的な相互作用が複数均衡をもたらしうること、あるいは、少なくとも、物価や賃金の正のショックに対する反応を弱めうるということです2。図表6は、毎年の春季労使交渉の結果であるベースアップ分の賃金上昇率を示しています。ご覧のとおり、驚くべきことに、この上昇率は、1999年から2013年までの間、ゼロ・インフレの罠が定着してしまったことを映じて、ほぼゼロ%で推移しました。しかし、2014年以降には明確な変化が現れました。すなわち、2013年に導入された新たな金融緩和の枠組みや、顕在化し始めた人手不足の影響を受けて、まず、賃金が小幅ながらも上昇し始め、その後、昨年から今年にかけては、恐らくは、近年の世界的なインフレと金融緩和の枠組みが維持されたことの影響から、急速に上昇していきました3

  1. 2Taylor (2000)は、米国の物価変動ダイナミクスに関して同様の点を指摘しています。また、Lagarde (2023)は、2021~23年の世界的なインフレがインフレ予想と価格設定行動に対する一種の協調メカニズムとして働いたことを論じています。
  2. 3この点については、Ueda (2024)や内田(2024)をご参照ください。

3.今後の課題

それでは、今後の課題を簡単に述べたいと思います。日本銀行の目標は、2%のインフレを持続的かつ安定的に実現することです。これまでのところ、インフレ予想をゼロ%から押し上げることには成功したように思いますが、それを今回は2%の目標値にアンカーしなければなりません。日本銀行は、インフレ目標の枠組みを有する他の中央銀行と同様に、その実現に向けて注意深く進んでいくつもりです。日本銀行が直面する課題の多くは他の中央銀行が直面したものと似た側面を有していますが、いくつかの課題には日本に特有の難しさもあります。

そうした課題のうち主要な一つが、自然利子率(r*)をできるだけ正確に把握することです。その正確な計測は、どの中央銀行にとっても容易なことではありませんが、過去30年間の長きにわたって短期金利がほぼゼロに張り付いてきた日本では、特に難しいことです。実質金利は多少なりとも変動してきたとはいえ、金利変動が乏しいもとでは、金利変動に対する経済の反応度合いを計測することには相応の難しさがあります。

最後になりましたが、今日と明日の2日間にわたる国際コンファランスでの議論が、中央銀行コミュニティにとって貴重な学びとなり、今後の課題への対処の一助となることを祈念します。

ご清聴ありがとうございました。

参考文献

  • 内田眞一(2024)「最近の金融経済情勢と金融政策運営――奈良県金融経済懇談会における挨拶――」:
    https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2024/ko240208a.htm
  • Lagarde, Christine (2023) "Policy Making in an Age of Shifts and Breaks,"
    Speech at the Annual Economic Symposium "Structural Shifts in the Global Economy"
    Organized by Federal Reserve Bank of Kansas City in Jackson Hole, 25 August.
  • Taylor, John B. (2000) "Low Inflation, Pass-Through, and the Pricing Power of Firms,"
    European Economic Review 44, 1389-1408.
  • Ueda, Kazuo (2024) "On the Recent Changes in the Bank of Japan's Policy Framework,"
    Remarks at the Peterson Institute for International Economics:

    https://www.boj.or.jp/en/about/press/koen_2024/ko240502a.htm