留保賃金は上がっているのか?
―わが国パート労働市場における分析―
古川角歩(日本銀行)
Research LAB No. 23-J-3, 2023年10月12日
- キーワード:
- 留保賃金、労働供給、人手不足、ルイスの転換点
- JEL分類番号:E24、J64
- Contact:
- kakuho.furukawa@boj.or.jp(古川角歩)
要旨
「留保賃金」とは、家計がその水準以上の賃金ならば就職し、それより低ければ非就業を選択する基準となる賃金のことである。留保賃金を分析することは、労働力フローや労働需給の決定メカニズムについて理解を深めるうえで有用である。本稿では、わが国パート労働市場における留保賃金を推計し、その含意について分析した古川(2023)[PDF 1,671KB]の概要を紹介する。
主な分析結果は次の三点である。第一に、留保賃金は、人口の高齢化などから上昇傾向にあることや、景気と連動して動くことが確認された。第二に、留保賃金が上がるもと、十分に募集賃金を引き上げられていない地域ほど企業の人手不足感が強いことが分かった。第三に、労働供給の賃金弾力性が低下に転じる賃金水準(所謂「ルイスの転換点」)と実際の賃金との乖離を算出すると、64歳以下の女性についてはルイスの転換点に近づきつつある可能性が示唆された。
はじめに
家計が就業するか否かを決めるにあたり、労働経済学のサーチ理論(職探し理論)では、留保賃金という考え方がある。留保賃金とは、家計がその水準以上の賃金ならば就職し、それより低ければ非就業を選択する基準となる賃金のことである。例えば、家計の留保賃金が高い場合は、企業からオファーされた賃金を受諾して就業する可能性は低くなり、逆に、留保賃金が低い場合は、企業の賃金オファーを受け入れて働く可能性が高くなる。このように、留保賃金は、非就業・就業の決定において起点となる概念であり、労働力フローや労働需給とも関連することが理論的に知られている(Burdett and Mortensen (1998))。
こうした留保賃金の考え方は、長期的に働くことを前提とした正社員市場よりは、短期的な雇用契約が多く、非就業と就業の間を人が行き来しやすいパート市場を分析する際に有用と考えられる。もっとも、わが国ではデータの制約もあり、留保賃金に関する研究はこれまでのところ一部にとどまってきた。そこで、本稿では、わが国パート労働市場における留保賃金を推計したうえで、その動向が労働力フローや企業の人手不足感に強い影響を与えていたことを実証した最新の分析である、古川(2023)の概要を紹介する。
留保賃金の決定メカニズム
留保賃金はどのような要因によって決まるのだろうか。理論的には、留保賃金は、就業していない家計が就業することで得られる効用と、非就業の状態にとどまることの効用が等しくなるように決定される。
標準的なサーチ理論モデルから導かれる留保賃金の特性として、本稿と関連するポイントは2点ある。1つ目は、就業が難しいなんらかの事情を抱える家計は、就業するためにはそれに見合う賃金水準を要求するため、留保賃金が高くなることである。2つ目は、留保賃金は、雇用の流動性とも関連していることである。雇用の流動性が低い状況では、賃金が低い求人のオファーを受託してしまうと、その後も同賃金にとどまる可能性が高く、よりよい賃金を期待しにくいという機会費用が発生する。そのため、非就業者にとっては、低い賃金の求人オファーは受託せず、よりよい賃金のオファーが届くまであえて非就業状態にとどまるというインセンティブが発生する。一方、転職がある程度しやすい場合には、賃金が低い求人のオファーを受けることの機会費用が発生しない(よりよい賃金の求人があれば転職することが容易なため)ことから、こうしたインセンティブが働きづらい。そのため、雇用の流動性が高い労働市場では、留保賃金は、平均募集賃金などの外的な要因よりも、個人の内的な要因に左右される度合いが大きい可能性がある。
留保賃金の推計
留保賃金の推計にあたっては、リクルートワークス研究所の「全国就業実態パネル調査」(2016~2022)の調査票情報を活用する。この調査は、全国の15歳以上の男女約5万人を対象として、同一個人の就業状態を毎年追跡調査しているものであり、前年1年間における就業状態や転職経験、収入など、幅広い設問を含んでいる。
同データを使うと、例えば、時給1,000円で働いている個人については、留保賃金は1,000円以下であると推測できるし、平均募集賃金が1,000円であるような地域で就業していない個人については、留保賃金は1,000円を上回っていると推測できる。こうした情報を活用することで、特定の属性(年齢など)が留保賃金に与える影響を推計することが可能となる。ここでは、個人の属性として性別、年齢、および就業希望に関するダミー変数を用いて、こうした属性が留保賃金を何円程度押し上げる(押し下げる)か推計する1。
まず、全サンプルを用いた推計結果を確認する(図表1(1) )。年齢と留保賃金の関係をみると、年齢が上がるほど留保賃金が上昇する傾向がある。特に、65歳以上は、平均的にみると15~24歳対比で留保賃金が700円高い。こうした傾向は、先行研究の結果とも整合的である。また、就業希望がある人と比べると、就業希望がない人の方が、留保賃金が高い。就業希望があるにも関わらず就業していない人について、理由別の留保賃金をみると、「健康上の理由」や「家庭の事情」といった理由を挙げている人の留保賃金が高い。
こうした属性の人たちは労働の不効用が高いと考えられる。例えば、高齢になるほど就業に伴う体力的・健康的な負担が大きくなれば、労働の不効用は相対的に大きくなると考えられる。このため、本稿の推計結果はサーチ理論から得られる含意と整合的であると言える。これらの傾向は、男女別にサンプルを分けて推計しても同様である(図表1(2)、(3) )。
図1.非就業者の属性が留保賃金に与える影響
もちろん、留保賃金を調査したデータがない以上、これらの推計結果が本当に正しいのかを直接証明することはできない。もっとも、同推計結果から示唆される非就業状態から就業状態への遷移確率の予測値を、実際の労働力フローと比較すると、高い精度で一致している(図表2 )。このことは、上記の推計結果が妥当であることの証左になっていると言える。
図2.非就業から就業への遷移確率
- 1パート労働市場は雇用が流動的であり、求職者に要求される技能も一般的なものが多いと考えられるため、前節で議論した通り、理論的には留保賃金は個人の内的な要因に左右される度合いが大きいと予測される。実際、古川(2023)は失業率などのマクロ変数を説明変数に含めた推計も行ったが、統計的に有意でなかったと報告している。
留保賃金の推移と労働需給との関係
続いて、上記の推計結果に基づいて、非就業者の留保賃金の動向や、留保賃金と企業の人手不足感の関係を確認する。上記の推計で用いた属性別の人口は、総務省「労働力調査」から四半期ごとの計数を得ることができるため、推計結果を用いて非就業者全体の留保賃金の分布を得ることができる。
まず、非就業者の平均留保賃金の推移をみると、2002年以降、感染症拡大期の短い期間を除いて一貫して上昇している(図表3(a) )。同前年比を非就業者の属性の構成比変化で寄与度分解した結果をみると、年齢要因が長期的な上押し要因となっており、高齢化に伴って非就業者の平均留保賃金が上昇していたことが窺われる(図表3(b) )。また、同賃金は、短期的には労働力フローを通じて各属性の構成比が変化することで、景気循環的に変動する傾向もある。例えば、2009年の金融危機直後には景気後退に伴って、意欲があるにもかかわらず就業できない人が非就業プールに流入したことが平均留保賃金を押し下げていた。また、感染症拡大時にも、対面型サービス業で働いていた若年層が失業したなどを受けて、年齢要因が一時的にマイナスに転じている。
図3.非就業者の平均留保賃金
続いて、留保賃金と企業の人手不足感の関係を確認する。非就業者のうち、留保賃金が平均募集賃金を下回っている割合が低いほど、企業は新たな働き手を見つけにくくなるため、企業の人手不足感が高まると予想される。こうした関係が実際に成立していることは、都道府県データを用いることで確認できる(図表4 )。このことは、留保賃金対比で募集賃金をしっかりと上げられていないことが企業の人手不足感につながっていることを示している。
図4.留保賃金と企業の人手不足感
ルイスの転換点
最後に、わが国パート労働市場における論点として、これまで労働供給の増加を牽引してきた女性や高齢者による労働参加が頭打ちとなるもとで、賃金上昇率が加速に転じる可能性があるかどうか、という議論について検証する。先行研究では、女性や高齢者の追加的な労働供給余地が縮小し、賃金を上げても労働供給が増えにくい、つまり労働供給の賃金弾力性が低下すれば、更なる労働力を確保するために大幅な賃金上昇が必要となる可能性があることが指摘されている(図表5 )。このように、労働供給の頭打ちとともに賃金弾力性が低下に転じるポイントは、「ルイスの転換点」と呼ばれることもある。
図5.ルイスの転換点
留保賃金の分布が分かれば、平均賃金が1%上昇したときに、その賃金で就業を希望する人が何%増えるか(=労働供給の賃金弾力性)を求めることができる。このため、賃金弾力性が低下に転じる賃金水準=ルイスの転換点を定量的に求めることができる。そこで、再び「労働力調査」のデータを用いて、四半期ごとにルイスの転換点に対応する賃金水準を求め、同時点のバイト・パートの平均募集賃金が、ルイスの転換点対比でどの程度の水準にあるかを計算する。計算の結果、特に64歳以下の女性について、もともとルイスの転換点までの距離が短かったところ、近年さらに近づきつつあることが分かった(図表6 )。直近(2022年第4四半期)では、実際の平均募集賃金がルイスの転換点の95%程度の水準となっている。これは、若年層の女性については既に労働参加が相応に進み、追加的な労働供給の余地が特に低下していることを表している。
図6.ルイスの転換点までの距離
おわりに
本稿では、わが国パート労働市場について、留保賃金を推計しその含意について分析を行った古川(2023)の概要を紹介した。
先行き、労働力人口が天井に達することが予想されるもと、転職市場が拡大する中で、パート賃金は上昇傾向を辿っている。古川(2023)の分析結果は、留保賃金が、今後のパート賃金の上昇の鍵を握っていることを示している。また、転職市場が拡大し、終身雇用に対する考え方に変化の兆しがあるもと、正社員の労働力フローなどにサーチ理論を活用することも有益と考えられる。日本では、サーチ理論を使った分析は限られているが、今後の賃金・物価情勢を考えるうえでは、こうした研究が蓄積されていくことが望まれる。
参考文献
- 川口大司・原ひろみ(2017)、「人手不足と賃金停滞の併存は経済理論で説明できる」、玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』、慶應義塾大学出版会、101-120
- 古川角歩(2023)、「パート労働市場における留保賃金とその含意 [PDF 1,671KB]」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-7
- Burdett, K. and Mortensen, D. T. (1998), "Wage Differentials, Employment Size, and Unemployment," International Economic Review, 39(2), 257-273
日本銀行から
本稿の内容と意見は筆者個人に属するものであり、日本銀行の公式見解を示すものではありません。