日本銀行盛岡事務所 国内事務所の仕事 ~「盛岡」の例から(2025年3月25日掲載)
日本銀行には、東京・日本橋の本店のほかに、全国に32の支店と14の国内事務所(含む発券センター、電算センター)があります。地域での現金供給、国庫金受払、金融・経済調査などを担う支店が主要都市に配置される中、さらにきめ細かな金融サービスの提供に貢献しているのが国内事務所です。独立した建物において、数十人規模で業務をこなす支店に対し、オフィスビルや民間金融機関の一角を借り、少人数で実務に当たっているのが国内事務所の特徴です。どのような仕事をしているのか、岩手県にある盛岡事務所を例にご紹介します。
岩手銀行本店内に事務所を設置

盛岡事務所は現在岩手銀行本店内に所在。
日本銀行には地方の拠点として、全国32の支店のほか、帯広市、旭川市、盛岡市、山形市、水戸市、富山市、福井市、長野市、鳥取市、徳島市、佐賀市、宮崎市の12都市に事務所が設けられています。そのほとんどは終戦前後の1945年4月から翌46年8月までに設置されたもので、交通・通信事情が悪化する中、地方行政機関との連絡を密にするという目的がありました。当時の事情について、盛岡事務所長の柳宏樹さんはこう話します。
「現在でも災害時における金融上の特別措置というものがあり、緊急時は預金通帳や印鑑を紛失しても、預金者本人と確認できれば預金の払い戻しが可能です。当時は戦争の被害で困った人が多かったはずで、その対応を迅速に行うために、各地域に事務所を置く必要があったものと思います」
ちなみに、前述の1年余りの間に事務所が新設されたのは24都市にも上ります。いかに緊急性が高かったかがうかがい知れます。
その一つである盛岡事務所は、終戦直前の45年8月10日に現在の岩手銀行の前身・岩手殖産銀行本店の一室を借りて開設されました。駐在員事務所として始まり、翌46年7月に盛岡事務所に改称、83年に岩手銀行の本店新築に伴って移転し、現在に至っています。
現在、東北地方には青森・仙台・秋田・福島と4つの支店がありますが、柳さんは「岩手県は南関東の1都3県より広いので、銀行券を円滑に供給するための拠点が不可欠です。さらに、北東北(青森、岩手、秋田の3県)の交通の結節点である盛岡には、全国展開する企業の多くが事業所を置いています。地域の金融経済について密な意見交換をするためにも盛岡に事務所を置く意義は大きいです」と強調します。
事務所は岩手銀行本店内の一角にありますが、日本銀行の職員以外は自由に立ち入りできないようになっています。コピー機や通信環境も日本銀行が独自に備えるものです。こうした環境について柳さんは「岩手銀行の理解・協力があってのことですし、良い関係を築いてきた歴代の職員たちのおかげとも感じています」と感謝を口にします。
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北上川、雫石川、中津川が市街地を流れる盛岡市。川の向こうに見える岩手山は絶景。
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開設当初に入居した岩手殖産銀行本店の建物は、現在「岩手銀行赤レンガ館」(正式名称:重要文化財「岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館」)として一般公開されている。
発券業務と金融経済の情報発信
盛岡事務所で働く職員は4人です。柳さん、企画役補佐の今由人さん、ここに勤務して約35年の齋藤裕子さんと、同約20年の熊谷麗さんです。
事務所では、少人数ゆえにコミュニケーションが欠かせません。今さんは「4人だけなので何かがあったときの影響が大きい。お互いの事情や健康状態に配意しています」と語ります。
盛岡事務所の業務は、大きく二つです。一つは日本銀行固有の仕事、もう一つは岩手県金融広報委員会の事務局としての仕事です。
前者では、主に銀行券の受払と、岩手県の金融経済に関する情報発信があります。
このうち銀行券の受払は、市中の金融機関に日本銀行券を円滑に供給し、使われて戻ってきたお金を回収する業務です。供給では、仙台支店から送られてくる紙幣を専用の金庫で保管し、金融機関に払い出していきます。回収においては、金庫にいったん保管し、その後、仙台支店に輸送します。金庫に収まるように、保管量を調整するのが一苦労です。
「新しいお札が皆さまの手に行き渡るようにするため、どのように金庫のスペースを確保するか、仙台支店の発券課や地元金融機関と意見交換を密にしています」
担当する齋藤さんはそのように話します。
もう一つの主要業務である情報発信は、8月を除く毎月公表の「岩手県金融経済概況」と、四半期ごとに公表する「岩手県企業短期経済観測調査結果(短観)」を中心に行っています。これらのレポートは、県内の企業や金融機関、官公庁の協力と仙台支店からの情報をもとに分析、作成しています。公表の際は所長が経済記者クラブで説明するほか、盛岡事務所のホームページにも掲載しています。
岩手県金融広報委員会の事務局
盛岡事務所は、岩手県金融広報委員会の事務局という役割も担っています。金融広報委員会は日本銀行や地方公共団体、業界団体などで構成する組織で、中立・公正な立場から暮らしに身近な金融経済に関する情報提供・学習支援を行っています。「港」「入り口」の意味から「知るぽると」の愛称があり、47都道府県に設置されています。「知るぽると岩手」は、戦後復興期の1950年に「経済発展を支える投資活動の裏付けとしての貯蓄の奨励」を目的に掲げ、「岩手県貯蓄推進委員会」として発足しました。以降、役割を少しずつ変えながら、現在では、金融経済に関する「情報提供」と「学習支援」を両軸に活動しています。名称も、99年の「岩手県貯蓄広報委員会」への改称を経て、2001年5月に現在の「岩手県金融広報委員会」になっています。
そうした変遷は現在進行形で続いています。従来は日本銀行情報サービス局が事務局を務める金融広報中央委員会と連携してきましたが、昨年、新たにJ-FLEC(金融経済教育推進機構)が設立され、金融広報中央委員会の機能が移管されたことに伴い、今後はJ-FLECと連携していくことになりました。
岩手県金融広報委員会事務局としての役割について、担当する熊谷さんはこう話します。
「岩手県金融広報委員会では、毎年11月に『暮らしとお金の講演会』という大規模イベントを開催しているほか、金融経済セミナーの開催と講師派遣、金融経済教育研究校の指定とその支援などを担ってきました。今後はJ-FLECと役割分担をしながら、地域の金融リテラシー向上に少しでもお役に立ちたいと思っています」
東日本大震災の被災と業務
ところで、盛岡事務所での歴史的な出来事としては、2011年の東日本大震災を忘れるわけにいきません。当時、事務所で勤務していた齋藤さん、熊谷さんは、こう振り返ります。
「長い揺れで、一瞬の停電もありましたが、岩手銀行の自家発電装置がすぐに稼働して電気もついたので、そんなに大きな地震とは思いませんでした。その日の銀行券の受払は終わっていたので、当時の所長の判断で早めに帰りました。外に出て初めて『ただごとではない』と知りました」(齋藤さん)
「地震後、すぐに本店から安否確認の電話が来たのを覚えています。事務所の設備に被害はなかったため、電力の節約に配意しつつ、翌週から通常通り仕事ができました」(熊谷さん)
二人の証言からは▼建物が頑強であること、▼予備電源や本店からの連絡でBCP(事業継続計画)が機能したこと、▼的確な現場の判断があったこと、などがうかがえます。
その後、津波や火事で損傷した現金の引換依頼が急速に増加したことから、4月20日から7月20日までの3カ月間、岩手銀行の協力で、同行本店内に「臨時引換窓口」を設置しました。ここには本店発券局ほか多くの支店から発券課の職員が駆け付け、週替わりで十人弱のメンバーが損傷した銀行券の引換作業などに当たりました。そのサポートをした齋藤さんは「濡れた紙幣を少しでも早く乾かせるように扇風機を4台購入しました。また、引換えはかなりの神経を使う作業だったそうですが、対応に当たった職員に対して、引換えを終えた方々から感謝の言葉が寄せられ、それがまた職員の励みになったと聞きました」と回想します。
盛岡駅前の「二度泣き橋」

北上川に架かる通称「二度泣き橋」
本支店の各所に勤務してきた今さんは、盛岡の印象をこう語ります。
「街がコンパクトにまとまっていて、川の向こうに見える岩手山は絶景です。イベントも多く、8月初めのさんさ踊りから9月の秋祭りの時期にかけては、お祭りの雰囲気に包まれます」
最後に、盛岡ならではのトピックを一つ。盛岡駅前で北上川に架かる「開運橋」は、転勤族の間で「二度泣き橋」と呼ばれています。一度目は「遠くに来たなぁ」と赴任したとき。二度目は次の転勤地に向かうときに、盛岡を去りがたくて泣くとのことです。名付け親は1991年5月から94年5月まで所長を務めた古江和雄さんだと言われています。
ただ、柳さんはこう補足もしてくれました。
「今は近いですよ、東京から。新幹線で2時間10分余りですから。おいしいものが多く、風光明媚なので、気軽に来てほしいですね」
(肩書などは2024年11月中旬時点の情報をもとに記載)