お金の話あれこれ(4) もっと知りたい!お金の話あれこれ
目次
「銀座」があるなら「金座」もある!?
―金座跡に建つ日本銀行本店―
皆さんは、「金座」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
「金座」とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のことで、金貨の製造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。
「金座」の初代の長となった後藤庄三郎光次は、1595年(文禄4年)、徳川家康の命により、御用彫金師であった後藤徳乗の代わりとして江戸に赴き、本町1丁目に屋敷を構え、金貨の製造に携わりました(以後、金貨の製造は光次を祖とする後藤庄三郎家が長となって行いました)。「金座」は、江戸のほかに、京都、佐渡、駿河にも開設されました。当時、製造所は設けられておらず、幕府から金貨製造の許可を得た「金吹き」と呼ばれる小判師が、後藤家の指図の下、自宅で判金を製造していました。判金は、後藤家の屋敷内に設けられた後藤役所で検定され、後藤家の極印を打たれて初めて貨幣としての価値が生まれました。その後、1695年(元禄8年)に慶長金が元禄金に改鋳される際、江戸の本郷霊雲寺近辺に吹所(製造所)が設置されました。この時、京都など各地の小判師は江戸に呼び戻され、後藤役所で行われていた検定・極印打ちを含む製造作業はすべて本郷の製造所に集約されました。しかし、1698年(元禄11年)には本郷の吹所が廃止され、再び本町1丁目の後藤家の屋敷で製造作業が行われるようになり、幕末まで続きました。なお、「金座」は、当初「小判座」(佐渡は小判所)と呼ばれていましたが、「金座」と呼称されるようになり、京都、佐渡は江戸金座の出張所となりました(駿河は17世紀初頭に廃止)。
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(左側)
「出来金改所(できがねあらためじょ)」…出来上がった小判の形状、量目を検査し、形の不整なものを除き表裏の極印を改める。
(右側)
「分棹裁切場(ぶざおたちきりば)・分棹改場(ぶざおあらためば)」…小判の幅に延ばした金の細長い板(分棹)を切断し、その重量を秤る。
さて、後藤家の屋敷があった「本町1丁目」は、現在の日本橋本石町に当たります。すなわち、日本銀行の本店建物は、まさに江戸時代の「金座」跡に建っているのです。日本銀行は1882年(明治15年)、永代橋のたもとの旧北海道開拓使東京出張所の建物で業務を開始し、1896年(同29年)に現在の場所へ移転しましたが、旧館本館の建築中(1890年(明治23年) 着工)は、かなりの金粒が採取されたと言われています。
「軍票」とは…
「軍票」とは、「軍用手票」の略称で、戦時中、占領地区において軍費を賄うために政府が発行したお札の一種です。わが国では、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争時に5種類の軍票が初めて発行されました。その後も日露戦争、日中戦争、太平洋戦争など、対外戦争の都度発行され、太平洋戦争時には実に50種類以上の軍票(「南方開発金庫券(注)」を含む)が発行されました(下表参照)。
日清戦争(1894から95年) | 5種類 |
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日露戦争(1904から05年) | 6種類 |
青島出兵(1914から22年) | 6種類 |
シベリア出兵(1918から22年) | 6種類 |
日中戦争(1937から太平洋戦争へ) | 35種類以上 |
太平洋戦争(1941から45年) | 50種類以上 |
- (注)「南方開発金庫券」は、東南アジア・西南太平洋の作戦地域へ資金供給等を行うため、1942年(昭和17年)に政府が設立した「南方開発金庫」発行の軍票です。同年以降、「軍票」は「南方開発金庫券」と呼称されました。 本文に戻る
また、第二次大戦末期以降、諸外国に進駐した連合軍は多くの軍票を発行し、日本本土でも1945年(昭和20年)8月末頃から「B号円表示補助通貨」(以下、「B式軍票」)を発行しました。日本政府は軍票の乱発によるインフレーションの助長などを懸念し、連合軍に軍票の発行取り止めを強く要請するなど、精力的な交渉を行いました。その結果、連合軍は日本政府の要請を受け入れ、翌月上旬には「B式軍票」の回収を開始したため、本土での本格的な使用は回避されました。もっとも、回収された「B式軍票」は未発行分とともに琉球(沖縄県および鹿児島県の一部)に回送され、「B円」の呼称で1958年(昭和33年)まで法貨として使用されました。
ところで、わが国の軍票の起源を知っていますか?それは、「西南の役」(1877年(明治10年) )に際し、軍資金に窮した薩摩軍が発行した「西郷札」と呼ばれる6種類の布製(紙の表裏に布を貼り合わせ)の軍用紙幣であるとされています。
もっとも、「西郷札」は反政府軍が発行したものであるため、厳密な意味では軍票ではありません。
新円切り替えと証紙貼付銀行券
第二次大戦後のわが国では、戦災により企業等の生産設備が打撃を受け、生活物資の供給不足が生じました。そうした中で、旧軍人への退職金の支払いなどにより臨時軍事費の支出が嵩 み、これに伴い、物価が高騰し、預貯金の引き出しが激しくなり、銀行券の発行高が急激に増えるなど、猛烈なインフレーションに見舞われました。
政府は、この激しいインフレーションに対処するため、1946年(昭和21年)2月16日、「総合インフレ対策」を発表しました。この総合対策の柱となったのが、「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」です。これらは、
- (1)同年2月17日以降、全金融機関の預貯金を封鎖する、
- (2)流通している十円以上の銀行券(旧券)を同年3月2日限りで無効とする(同年2月22日、五円券追加)、
- (3)同年3月7日までに旧券を強制的に預入させ、既存の預金とともに封鎖する一方、新様式の銀行券(新円)を同年2月25日から発行し、一定限度内に限って旧券との引き換えおよび新円による引き出しを認める、
というものでした。これが、いわゆる「新円切り替え」です。
さて、この総合対策の一環として、様式を変更した新しい銀行券の発行と、旧様式券の流通停止を準備していましたが、同対策の実施時期が当初想定より半年程度繰り上げられたため、新様式券(A一円・五円・十円・百円券)の製造が時間的に間に合いませんでした(発行開始は、A百円および十円券が3月1日、A五円券が同月8日、A一円券が同月20日)。そこで政府は、新様式券の代わりに、同年2月20日公布の「日本銀行券預入令ノ特例ノ件」によって、千円、二百円、百円および十円の証紙4種(唐草模様をあしらった簡単なもので、大きさは縦27mm×横18mm程度)を発行し、これを旧券の表面に貼付することで臨時的に新円と見なすこととしました。これが、「証紙貼付銀行券」と呼ばれるものです。
証紙貼付銀行券
証紙は、日本銀行のほか、各地の金融機関に配布され、1枚1枚の銀行券に糊付けする作業が徹夜で行われたと言われています。また、こうした通貨措置計画は秘密裏に進められていましたが、いつのまにか国民に知れ渡るようになってしまいました。「五円以下の小額紙幣は封鎖を免れる」というので、多くの駅で十円券や百円券で五円以下の釣り銭目当てに切符を買おうとする人々が長蛇の列を作ったほか、たばこ屋でも同じような現象が見られた(当時ピースという煙草が七円だったため十円券で買入れ)、というエピソードが残っています。
なお、臨時的に発行された証紙貼付銀行券は、徐々に新様式券の発行元が充実していったため、1946年(昭和21年)10月末をもって通用が停止されました。
デザインの変更を余儀なくされた日本銀行券
1946年(昭和21年)の新円切り替えに伴い、A系列の日本銀行券が発行されました。ここでその製造・発行にまつわるエピソードを紹介します。
1945年(昭和20年)10月25日、大蔵省金融局は、同省印刷局および凸版印刷などの民間印刷業者(4社)に対し、新しい様式の銀行券の図案作成を指示しました(一円、五円、十円、百円、五百円、千円の6券種)。金融局は、全部で53点提示された図案の中から凸版印刷が作成した図案を採用し、新しい銀行券を発行する準備を始めました。ところが、直後の同年11月28日、GHQ(連合国最高司令部)が日本政府に対して、『新通貨発行の統制方及流通通貨量報告方に関する総司令部覚書』を発出し、「新様式の通貨の製造・発行は事前承認を要する」としました。そのうえ、「高額券の発行はインフレを助長する恐れがあるため、好ましくない」と指摘してきました。
これを受けて金融局は、高額券(五百円、千円)の発行を取り止め、百円券(図柄(以下同じ) :弥勒菩薩 像)、十円券(伐折羅 大将(新薬師寺十二神将の1つ) 像)、五円券(彩紋模様)および一円券(武内宿禰 (天皇の家臣として活躍した記紀伝承上の人物) 像)の4券種について、同年12月12日にGHQに対して製造・発行の承認を申請しました。
(写真提供/凸版印刷株式会社)
しかし今度は、GHQは「伐折羅大将の形相は戦争に敗れた日本国民の憤怒を、また弥勒菩薩の表情は国民の悲痛の感情を表している。さらに、武内宿禰は軍国主義のシンボルであり、いずれも肖像としてふさわしくない」として、五円券以外の図柄を変更するよう求めてきました。発行期日を間近に控え、金融局は改めて図柄を一から検討する時間的余裕がなかったため、これへの対応として、
- (1)百円券は既に通用していた「い百円券」(聖徳太子像)の刷色を変更して、新円標識(天平雲と桜花)を追加する、
- (2)十円券は伐折羅大将像を国会議事堂に変更する、
- (3)一円券は武内宿禰像を二宮尊徳像に変更する、
といった修正を施したうえで、GHQに再申請し、ようやく1946年(昭和21年)3月からの発行にこぎ着けました。
こうした苦労の末に流通し始めた新しい銀行券でしたが、敗戦後間もないという世相を反映してか、国民の間では、とくに十円券に対し、さまざまな噂や憶測が、まことしやかに囁 かれたそうです。これは例えば、
- (1)券表面の図柄は左が「米」、右が「国」、すなわち「米国」の文字をかたどっている、
- (2)券表面左に描かれている国会議事堂が十字架の中に押し込められており、身動きが取れなくなっている、
- (3)券表面右に描かれている皇室のシンボルである菊の紋章が十字架の鎖につながれている、
- (4)券裏面に描かれている小さな花模様の数が米国の州の数(当時)と同じ48個である、
といったものでした。
発行されなかった日本銀行券
製造後の情勢等の変化により、発行されるに至らなかった日本銀行券があります。ここでは、その中のいくつかを紹介します。
まずは、1927年(昭和2年)の金融恐慌時に緊急製造された「甲五十円券」(裏白五十円券)です。この銀行券は、「乙二百円券」(裏白二百円券)とほぼ同時に、極めて短期間に製造されたもので、「乙二百円券」と同様、裏面には何も印刷されていませんでした。大蔵省は、緊急事態が終息すれば回収する方針の下、同じ日にこれらの発行の告示を行いました。しかし、「甲五十円券」の発行予定日より1日早く発行された「乙二百円券」や一連の緊急措置によって、金融恐慌が鎮静化に向かったことから、用意していた「甲五十円券」は結果的に発行されませんでした。
次の未発行銀行券は、第二次大戦末期から終戦直後(1945年(昭和20年) )にかけて緊急準備用として製造された「は十円券」、「い五百円券」、「い千円券」です。もっとも、これらと同じ用途で、少し前(1944年(昭和19年) )に製造された「ろ十円券」および「ろ百円券」は、印刷様式を簡略化したものでしたが発行されました。しかし、1945年(昭和20年)に製造された「は十円券」、「い五百円券」、「い千円券」は、出来栄えが優れず銀行券として適当でないという理由から、告示が出ないまま未発行に終わりました。
なお、「は十円券」については、偶然印刷工場を視察した大蔵大臣が印刷中の銀行券を見て、従前の十円券よりも小型で、あまりに貧弱な銀行券であったため、かえってインフレ心理を煽り、日本の国力の衰退を大衆に印象づける恐れがあると判断して、その告示と発行を取り止めたとされています。
続いて、1946年(昭和21年)に製造された「A千円券」です。この銀行券は、1945年(昭和20年)8月発行の甲千円券の図柄(日本武尊と建部神社)に新円標識(天平雲と桜花)を追加し、刷色を変えることでGHQ(連合国最高司令部)に製造に関する許可申請を行い、その承認を得ましたが、本券の発行によるインフレーションの刺激が懸念されたことや券面に兌換券表示が残っていたことから発行が見送られ、大蔵省の発行告示もないまま未発行に終わりました。