【講演】アジアにおける金融:バンキング・ビジネスと資本市場
国際コンファレンス・前夜ディナーレセプション(日本証券業協会主催)における基調講演の邦訳
日本銀行総裁 白川 方明
2012年2月9日
目次
1. はじめに
本日は、日本証券業協会が主催する国際コンファレンス・前夜ディナーレセプションでお話をさせて頂く光栄に浴し、厚くお礼を申し上げます。
明日の国際コンファレンスは、「アジア市場の統合と金融革新」というテーマの下、証券監督者国際機構(IOSCO)や国際会計基準審議会(IASB)といった国際フォーラムの幹部の方々をはじめ、アジア各国の資本市場関係者の方々も幅広く参加して開催されます。アジアの金融・資本市場の将来像や、アジアにおける金融インフラ革新の方向性などについて、活発な議論が行われることを期待しています。
2008年のリーマン危機以降、主要国の中央銀行は従来の枠組みを超えた政策対応を迫られてきましたが、そうした中で、中央銀行と資本市場の接点も以前より深まっています。例えば、日本銀行では社債、株式ETF、不動産投資信託(REIT)などのリスク資産の購入に踏み切っていますが、これなども中央銀行の歴史上は前例のない政策と言えます。
このように、政策対応のあり方も含め、世界の金融環境は大きく変化しつつありますが、本日は、アジアの金融・資本市場について、特にバンキング・ビジネスと資本市場という視点から、私が日頃感じていることをお話させて頂ければと思います。
2. アジア経済の現状
最初に、アジアの金融・経済動向について、一言することから始めたいと思います。
ギリシャを発火点とする欧州ソブリン問題は、既に3年目に入りつつありますが、今年の世界経済を見通すにあたり、引き続きその帰趨が重要なポイントであることは、まず異論がないところだと思います。他方、新興国の経済をみると、過去数年間に亘って、世界経済の牽引役としての役割を果たしてきました。なかでも、アジアは中国やインドを筆頭に多くの国が高成長を続けています。最新の国際通貨基金(IMF)による世界経済見通しでは、本年の世界経済の成長率は+3.3%と予測されていますが、このうちDeveloping Asiaと総称される27か国全体の寄与度は、約6割と見込まれています。
世界経済が不透明感を拭えない中でも、アジアが高成長を維持していることの背景には、まずもって豊富な人的資源や都市化の進展、競争力の高い技術基盤の存在が挙げられますが、さらに、1990年代後半のアジア金融危機後の様々な取組みのプラス効果も与かっていると思われます。アジア危機から立ち直る過程で、アジア域内の各国は財政の健全化、物価安定を重視した金融政策運営、金融監督・規制の強化、金融資本市場の整備など、広範囲の改革に取り組んできました。後から振り返ってみると、アジア危機は、平時においては困難と考えられる改革努力を強く促す契機になったという意味で、災い転じて福となった訳です。
もっとも、こうしたアジア経済も、欧州ソブリン問題の影響から遮断されている訳ではありません。欧州ソブリン問題がアジアに影響を及ぼすチャネルとしては、貿易面を通じた影響、金融市場の急変動を通じた影響、欧州金融機関のデレバレッジの3つを想定することができます。ここで留意すべき点は、これら3つのチャネルは互いに独立したものではなく、連関する側面をもっているということです。例えば、欧州の金融市場で動揺が長引けば、欧州金融機関のバランスシートが弱体化し、アジアにおいて欧州金融機関のデレバレッジが引き起こされる可能性があります。また、こうした動きが拡がって、貿易金融に支障が生じれば、貿易依存度の高いアジア経済に悪影響が及ぶ事態も考えられます。
これまでのところ、欧州金融機関のデレバレッジは総じて緩やかであり、一部では、アジア域内の金融機関が欧州金融機関のビジネスを肩代わりする動きもみられていることから、欧州ソブリン問題の深刻な余波がアジアで顕在化するには至っていません。とはいえ、欧州の金融機関は企業向けシンジケート・ローンや貿易金融、あるいは船舶・航空機のリース・ファイナンスといった分野において、アジアでも一定のプレゼンスを有しており、欧州金融機関のデレバレッジを巡る動向には、今後も注意が怠れないと思っています。
3. アジアの金融機関のビジネス・モデル
ところで、アジア経済が堅調を維持していることについては、もう1つ、別の要因も言い落とすことはできません。それは、今回の世界的な危機に先立つ局面において、アジアの金融機関は証券化商品やリスク移転商品といった複雑な仕組み商品に対するエクスポージャーが限定的であったという点です。
今回の危機を経て、複雑な仕組み商品に代表されるタイプの金融イノベーションに対し、懐疑的な見方——あるいは、自己省察と言ってもよいかも知れません——が増えていることは事実でしょう。金融イノベーションが社会厚生の改善に繋がるためには、それが金融の基本的機能——すなわち、金融仲介と決済——をサポートし、経済全体の生産性上昇に繋がることが大前提となります1。今次危機の発生前には、再証券化商品の一部でこうした基本原則を逸脱する動きが見られましたが、レポのようなシンプルな有担保取引においても、受け取った担保債券を他の取引の担保として次々に再利用することが行われ、これによって流動性が自己増殖する——これを反対側からみれば、担保債券の回転速度が急上昇するということです——という事態が発生していました。アジアの金融機関がこの種のイノベーションや金融取引の連鎖から相対的に距離を置いていたことは、結果的にみれば、リーマン危機後の混乱を乗り切るうえでの一助となった面も否めません。
もともとアジアの金融機関は、「国内預金をベースに貸出を行う」という伝統的な——あるいはベーシックな——ビジネス・モデルに立脚してきました。実際、アジア各国の貸出/預金比率をみると、100%を下回る国が大半を占めています(図表1)。国内預金を主たる資金調達源とするビジネス・モデルは、ホールセール市場への調達依存度が高い場合に比べて、資金流動性リスクが低いと考えられますが、今回の金融危機においては、この点もアジアの金融機関にとってプラスに働いた可能性があります。
一方、高成長を背景に域内の経済関係が緊密化するアジアでは、域内のクロスボーダー金融取引も著増しており、金融機関に求められるサービスも高度化しつつあります。例えば、複数国に跨がるキャッシュ・マネジメントや貿易金融のサービスを、共通のプラットフォームで一体的に提供することを可能にするトランザクション・バンキングが拡がりをみせている点は、注目されるところです。また、個々の企業単位を越えて、サプライチェーン全体のキャッシュフロー管理を視野に含めるサプライチェーン・ファイナンスの動きも、トランザクション・バンキングの1つの形と位置付けることができると思います。
- 1 この点については、白川方明「金融イノベーションの光と影」、オランダ中央銀行主催「金融イノベーションがもつ経済厚生上の効果」に関するコンファレンスにおける講演の邦訳(テレビ会議により参加)、2011年11月11日を参照。
4. アジアの金融機関にとっての課題
このように、アジアでは金融機関のビジネス・モデルも変化しつつありますが、こうした中でアジアの金融機関が直面している課題のうち、特に2つの点について申し上げたいと思います。
第1の課題は、人口動態という、すぐれて趨勢的な課題です。既に日本がこの難題の渦中にあることはよく知られていますが、現在は豊富な労働力に恵まれているアジア諸国も、先行き10年程度を展望すると、高齢化や少子化といった逆風から逃れ得ない状況にあります。すなわち、現在のアジアでは、総人口に占める生産年齢人口の比率がピークに接近しつつある国が多くみられており、今後数年間のうちには、総人口との対比でみた労働力の規模が縮小することが予想されています(図表2)。こうした人口動態変化は、需要と供給の両面から経済成長を制約しかねないものですが、金融業の視点に立ってみると、高齢化の進展は貯蓄の減少を通じて、預金ベースを縮小させる可能性を孕んでいます。
人口動態に起因する預金の減少というトレンドを緩和する1つの方策は、中所得者層や中小企業の拡大というアジア経済のダイナミクスを活用して、金融包摂(financial inclusion)——社会の幅広い層に対する金融サービスの提供——を促進することだと思います。この点に関連して、最近注目されるのは、携帯電話の普及と金融サービスの拡充を結びつけるモバイル・バンキングの動きです。アジアでも急速に拡がりつつあるモバイル・バンキングは、金融仲介や決済サービスに対するアクセスを改善しようとするものであり、適切に設計・活用される場合は、社会厚生の改善というイノベーション本来の目的に資する可能性をもっています。
アジアの金融機関にとっての第2の課題は、長期資金に対する需要の高まりと、それに伴うリスク管理の強化という問題です。都市化や産業集積化が進むアジアでは、交通輸送やエネルギー供給、通信手段といった基幹インフラに対する巨額の潜在的需要があり、アジア開発銀行によれば、その規模は2010年から2020年までの期間で約8兆ドルに達するとも推計されています2。こうしたインフラ需要をファイナンスするためには、財政資金だけではなく、銀行融資などの民間資金を活用することが必要になります。インフラ融資は10年を超える長期プロジェクトが多く、そのコミット期間は預金の平均残存期間を大きく上回るため、金融機関はマチュリティ・ミスマッチの制約に直面せざるを得ません。これは、長期のモーゲージ・ローンについても該当する問題ですが、アジアの金融機関がこうしたマチュリティ・ミスマッチをどこまで適切に管理できるかは、今後の大きな課題だと思います。
- 2 この点については、Asian Development Outlook 2010 Update: The Future of Growth in Asia, Asian Development Bank, 2010を参照。
5. アジアにおける資本市場の発展
金融仲介機能を果たす銀行がマチュリティ・ミスマッチの是正を図るためには、資本市場、なかでも社債市場の発展が重要な鍵を握りますが3、この点については、2つの側面を指摘したいと思います。第1の点は、金融機関自身が債券発行という形で資金調達手段を多様化することができれば、マチュリティ・ミスマッチ・リスクをより効果的に管理することができるという点です。第2の点は、社債市場が発展すれば、インフラ整備などに必要な長期資金を、直接、安定的に調達するうえで役に立つという点です。インフラ構築のような長期プロジェクトでは、期間中に想定外のショックが発生する蓋然性が高まりますが、そうした場合でも、社債と銀行借入という2つの資金調達手段が併存していれば、ファンディングの安定性が高まるというメリットが考えられます。
もっとも、現時点でみる限り、アジアの社債市場はまだ十分に発展しているとは言えません。アジアでは社債市場の育成に向けた様々な取り組みが進められており、日本銀行もアジア・ボンド・ファンド(ABF)の創設などを通じて、これらの取り組みに積極的に参画してきました。アジアの貯蓄・投資バランスは、引き続き貯蓄超過の状態にあり、域内の投資はアジア金融危機以前の水準には戻っていません。アジアにおける社債市場の整備は、域内貯蓄を域内投資に有機的に結びつけるうえで有効であるのみならず、今後、アジア各国においても高齢化が進展していく中で、年金や保険といった機関投資家に対し、長期投資の受け皿を提供するという意味でも、メリットがあると考えられます。
なお、資本市場との関連では、債券市場とともに株式市場も重要な役割を担っていますので、アジアの株式市場についても一言申し上げたいと思います。
アジアの株式市場は、この数年間、目覚ましい発展を遂げてきました。例えば、国際取引所連合(World Federation of Exchanges)のデータによると、昨年中にアジア・太平洋地域で実施されたエクイティ・ファイナンスは、金額ベースで世界全体の46%を占めており、IPOによる企業上場件数も、同様の世界シェア(50%)に達しています。また、アジア・太平洋地域における株式市場の時価総額は、世界シェアで31%まで上昇しており、リーマン危機後の回復ペースは、他地域を大きく上回っています(図表3)。
このように、アジアの株式市場では、売買金額の増加が市場流動性を向上させ、それが今度は内外の企業による資金調達を促すという好循環が働いていると考えられます。昨年には、世界最大の商品取引商社であるグレンコアが、ロンドンと香港で複数上場を行って話題を集めましたが、これなどもアジアの株式市場がもつダイナミズムを象徴する出来事ではないでしょうか。
アジアの株式市場が資金調達の場として魅力を高めていくことは、アジアがもつ豊富な貯蓄をグローバル企業に開放していくことにほかなりません。しかし、これは同時に、アジアの投資家に対して域外への投資機会を提供するという側面も併せもっています。グローバル企業との接点も梃子としながら、今後、アジアの資本市場がさらに厚みを増していくためには、市場インフラや金融規制の域内ハーモナイゼーションも課題となります。この点では、域内金融市場の統合を推し進めてきた欧州の経験から、アジアが示唆を得るところもあるのではないでしょうか。
金融市場のハーモナイゼーションに向けて歩を進めていくのであれば、市場関係者がその機運を主体的に高めていくことも重要となります。例えば、国境を越えた証券取引所の連携は、単にシステム面の効率性向上に繋がるのみならず、域内資本市場のダイナミズムそのものを変容させる可能性も秘めています。アジアでもASEAN数か国の証券取引所が共同で電子ネットワークを構築し、クロスボーダーの相互売買を実現させるASEAN Trading Linkの試みが始まっていますが、こうした取り組みの今後の展開が注目されるところです。
- 3 この点については、"Weathering Financial Crises: Bond Markets in Asia and the Pacific," BIS Paper No. 63, Bank for International Settlements, 2012を参照。
6. おわりに
本日は、アジアにおけるバンキング・ビジネスと資本市場という観点から、日頃感じていることを申し上げました。銀行部門と資本市場が両輪となって発展することは、金融システムの安定性にとってプラスと考えられますが、必ずしもこれが十分条件であるということではありません。実体経済の関係深化が先行してきたアジアでは、金融面の域内協力をさらに強化していく余地があると思います。日本銀行としても、関係者の皆様と連携しつつ、決済インフラの改善やクロスボーダー担保のスキーム構築などを通じて、アジアの金融・資本市場の一層の発展に貢献していきたいと考えています。
ご清聴、有難うございました。