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【インタビュー】指揮者 西本智実氏
(広報誌「にちぎん」No.84 2025年冬号)

インタビュー / 扉を開く
音楽の奥深さを探求し世界を魅了するマエストロ

西本智実(指揮者)

グローバルに活躍する指揮者・西本智実さん。幼少期からバレエを学び、ピアノの教育を受け、オペラやバレエ公演を見て総合芸術に心を奪われました。学生時代からオペラ副指揮者を務め、ロシア留学。目の前の仕事に一生懸命打ち込むうちに、世界から招かれる指揮者となった西本さんに、音楽への思いを語っていただきました。

取材・文 小堂敏郎
写真 野瀬勝一

この記事の扉ページの画像。正面を見て柔らかく微笑む西本智実氏のバストアップ写真

音楽があふれる環境で育ち音大では楽曲分析に夢中に

  • 西本さんは幼少期から音楽に親しまれたそうですね。

    西本 私は1970年、万博が開催された年に大阪で生まれました。ピアノ教師でもあった母は、朝はレコードをかけ、日常の中で歌曲を弾き歌いました。私はピアノを最初遊びのように触っていきましたが、3歳から本格的なレッスンが始まりました。母はクラシックだけでなくジャズなども好きでしたし、テレビや街中ではヒット曲やさまざまな音楽が流れる時代。物心つく前から多ジャンルの音楽があふれる中で育ったのだと思います。

  • 3歳からはピアノやバレエを本格的に始められた。

    西本 母は、私が3歳になってから習い事を正式にスタートするという考えがあったようです。ピアノは個人レッスン、バレエはグループレッスン。その違いは対極で面白くて、両方にいい影響がありました。

    日記代わりにピアノで小さな曲を作ってみたり、一方でバレエは一切言語を介さない身体表現です。チャイコフスキーに代表されるような素晴らしい音楽の中で、アンサンブルで作品を創り上げていく。幼少期は特に学年が同じでも身長に差があったり、みんなさまざまです。そんな多様性も包摂するグループレッスンは、とても厳しいものでしたが、ストーリーのある音楽によって具体的なものが表現されていることに気が付き、音楽から想像する楽しさを知りました。

    その両方で自分の興味を補い合い、音楽や芸術の世界をより楽しむ子どもでした。

  • 音楽の世界で生きていきたいという気持ちが芽生えたのは、いつ頃でしょうか。

    西本 親族には音大出身者も複数おり、音楽家というのは自分で選択してなれる職業ではないと、子どもの頃から分かっていました。

    小学校の卒業アルバムに将来の夢を書く欄があり、先生が「本当に今思っていることを書きなさい」とおっしゃり、私は「作曲家と指揮者になり人の心を慰める音楽をつくる」と書きました。私にとっての音楽家の仕事とは必ずしも職業として目指すというものではなく、その本質的なことを書きました。

    振り返ってみると、小学4年生ぐらいの頃には、音楽の奥深さを感じるようになっていました。それは美術や文学作品、映画などでも衝撃や影響を受けている最中で、特に生演奏での音楽からは、細やかなディテールが鮮やかに感じられました。

    音楽を見えない建築物のように捉えて聴いていると、モチーフが展開拡張していくことにも気付き、楽譜は同じでも指揮者の解釈によって音楽が違って聴こえる。劇場空間の大小や音響設計や座る席によっても違って聴こえる。この瞬間に音が調和し別次元の何かが生まれ、秩序を感じる唯一無二のものだと。

    バレエの公演では、生のオーケストラの演奏によって、言語一つ介さずにその作品の本質が伝わる。子どもの頃に感じた音楽の奥深さが何であるか、今も自問しながら探し続けている気がします。

  • 大阪音楽大学音楽学部作曲学科作曲専攻に進まれました。

    西本 高校になると文学論や芸術論を交わせる友人たちと出会いました。自分自身が耕される感覚を抱くようになると、興味は作曲へと移っていきました。子どもの頃から奥深さを感じてきた作品が、どのように作られているのか、作曲家は音楽を通して何を伝えているのか、音楽学や作曲を専門的に学ばないと一生後悔すると思い、和声学と作曲法のレッスンにも通い始めました。

    今のようにパソコンで音楽を作る時代ではありません。楽譜も全て手書きの時代に、和声学、対位法、アナリーゼ(楽曲分析)、オーケストレーション(管弦楽法)、スコアリーディング、そして実技実践と、作曲専攻での学びは多岐にわたりました。特にアナリーゼには目からうろこの連続で夢中になりました。バッハ、モーツァルト、ベートーベン……ルネッサンスから現代に至るさまざまな時代の楽曲を時代背景とともに分析していきました。

    それは、楽曲を生み出した作曲家に近づく行為でもあります。この基礎は、今も常にしており、私が音楽を作る時の基盤になっています。

オペラ現場のアルバイトからサンクトペテルブルク留学へ 指揮者の道へ無我夢中で駆け抜けた

  • 音大時代にはオペラの現場にも携わったそうですね。

    西本 作曲専攻の学生なら新作オペラのパート譜書きを仕上げられるだろう、ということで幸運にもアルバイト指名していただきました。その頃、日本のオペラ団体もようやく原語で上演し始めた頃でもありました。日本語訳だと、文法も楽曲の一音への言葉の入れ方も異なるためオリジナルと別ものになってしまいます。最初の現場から原語で取り組めたことはとても幸運なことでした。スコアを見ながら照明や字幕のQ出し(合図)といった経験を経て、20歳の頃からは副指揮者として仕事を依頼されるようになりました。

  • 自分が指揮をしたいという思いはありませんでしたか。

    西本 現場での仕事を覚える事が多く、とても自分が指揮をするなんてできないと思いました。子どもの頃に「指揮者になりたい」と書いた自分を「何も分かっていなかったな」と思う日々です。

    オペラの現場では各セクションの専門家が集まり総合芸術として舞台を制作しています。時には議論が激しくぶつかり合う姿を見て真剣勝負のプロの厳しさも学びました。異なるさまざまな感性によって創り上げていく総合芸術そのものに惹(ひ)かれ始めながら、授業が終わるとほぼ毎日、副指揮者として現場で働きました。無我夢中でした。

  • このアルバイトをきっかけに、舞台裏副指揮者の仕事も任されるようになったそうですね。

    西本 オペラ制作は時間を要しますので、例えば海外から招聘(しょうへい)された本番指揮者が帰国し本番前に戻ってくるまで、指揮者の考えを基盤に副指揮者はリハーサルを任されます。公演中にはプロンプターや舞台裏で演奏するバンダなどで指揮をし、公演を支えます。早い段階で團伊玖磨(だんいくま)先生や岩城宏之先生、海外のオペラ劇場の指揮者の元で多くの事を実践の中で、教えていただき学びました。苦学生でしたが、かけがえのない日々を送りました。

  • 音大卒業後、26歳でサンクトペテルブルク音楽院に留学しました。

    西本 経済的に自立するためにも「音楽の道を歩いていけるか27歳までに判断する」と心に決めていました。大学在学中から卒業後もオペラの副指揮者の仕事を途切れなくいただき、年間300日以上、現場で研さんする日々がとても楽しくなってきました。それでいて「楽しい」のは違うな……もっと学ぶべきことがたくさんある!という思いが募ってきました。

    そのような現場の中で、海外の3人の指揮者から、立て続けに留学を勧められたのです。今こそ決心しなければと思い立った時、不思議なことに子ども時代の感動の記憶もワッとよみがえってきました。幼い頃、初めて衝撃的な感動を覚えたのが、ボリショイ劇場のバレエ公演やロシア人音楽家たちの演奏でした。帝政時代からソ連崩壊、そしてロシアへと変わる歴史の中で、人々のあいだに息づく音楽・芸術がもたらしていることとは何だろうと、ずっと考えていました。

  • サンクトペテルブルクでの留学生活はいかがでしたか。

    西本 当時のロシアには音楽の世界でアマチュア活動をする人はいませんでした。音楽院はあくまで職業訓練の場であり、世界的ヴァイオリニストが自身に必要な学びを求めて再び音楽院で必要なレッスンを受けていました。日本では最近リカレントという言葉をよく聞きますが、国立音楽院、つまりコンセルヴァトーリヤ(仏語/コンセルヴァトワール)は、まさにそのようなところでした。

    伝統的な劇場は舞台に傾斜をもたせた八百屋舞台となっていて、舞台をより立体的な空間としています。特にダンサーは、体幹軸をとるには高度な技術が必要です。しかしそういった伝統が至高の舞台を生み出していた。当時のロシアは、ヨーロッパ以上にヨーロッパの伝統・文化が古いまま残っていました。

    舞台制作をする時、組み合わせ、要素が絡み合うと作品はどこまで変化していくのかなどをプロット段階で把握して各セクションに示さないと始まりません。音楽は、楽譜から読み取れる情報として、音圧はデシベルで、音の高低はヘルツで、リズムは時間で測ることもできますが、実際演奏するホールや劇場に入ってからさまざまな工夫が必要です。

    経済的に苦しく、オペラスタッフや友人が応援して下さった餞別(せんべつ)とわずかな貯金が留学費用でした。学費と寮費を差し引いた残りのお金で切り詰めていましたが、冬場は想像を絶するほどの凍える寒さ。防寒具は必須で、1年でお金が底をつきました。一時帰国し、副指揮者の仕事をし、そのお金を貯め、再び音楽院に戻る。そんな生活を2年半、無我夢中で繰り返しているうち、多くの方々が私を支え、引き上げてくださった。

    その後、1998年、京都市交響楽団から声がかかり、翌年には旧レニングラード・フィルのメンバーによるオーケストラを指揮することができました。

一生懸命の積み重ねで世界的指揮者に 音楽の力を次世代に伝える

  • 日本とロシアで実績を重ね、また世界各国の名門オーケストラや歌劇場から招聘されるなど、ご活躍を続けてこられました。

    西本 目の前の仕事を一生懸命に取り組んできました。それを積み重ねられたのは、変わらぬ友人たちやスタッフの支えがあったからこそです。

    実は、40歳までにアメリカから声がかからなかったら、この世界で進むことを考え直そうと思っていました。まさに40歳の時にアメリカ西海岸から、そしてカーネギーホールでアメリカ交響楽団を指揮する機会があり、その後、ニューヨーク公演に招聘していただき、2度ホワイトハウスにもお招きいただきました。

  • 2013年からはヴァチカン国際音楽祭に招聘されています。サンピエトロ大聖堂のミサで、長崎県平戸市生月(いきつき)島に16世紀から伝わる聖歌「オラショ」を演奏されていますね。

    西本 オラショの語源はラテン語、ポルトガル語で「祈り」の意味です。その中の楽曲には、トリエント公会議でイベリア半島では歌われなくなった賛歌が含まれています。その賛歌が、生月島に遺(のこ)っています。

    16世紀、宣教師たちが来日して伝えた聖歌が、禁教時代を経てメロディーは変容したものの、歌詞はラテン語として聴き取れる状態で生月島の潜伏キリシタン口伝によって現在まで遺っています。音楽史的にも稀有なる奇跡です。

    ヴァチカンから招聘が決まり、ミサでも指揮する機会を与えられることとなり、ヴァチカンでの会議で「あなたが演奏したいミサ曲はありますか」とお声がけがありました。

    そこで、生月島に遺る「オラショ」について話をしましたところ、儀典音楽の監督にその場で電話がつながり、皆川達夫氏らのご研究などについても話しました。約1カ月後に正式にサンピエトロ大聖堂におけるミサで演奏することが決定しました。

    長い年月を経て、ヴァチカンに聖歌が戻る体験には、何か大いなる導きを感じずにはいられませんでした。

  • 大阪・関西万博ではローマ教皇庁とイタリア館のアンバサダーを務め、演奏を披露されました。

    西本 2024年6月に打診の手紙が届き、秋、例年のようにヴァチカン国際音楽祭に参加した際、万博についてローマ教皇庁の会議に参加しました。さまざまな議題の中、あらためて「長崎」が継承してきたヴァチカンとも深い関係がある歴史的・平和的な観点での提案を申し上げましたところ「長崎はもちろん、広島についても」と。

    私は広島大学特命教授、脳・こころ・感性科学研究センター上席特任学術研究員としてのご縁がありましたし、当地の教育の場で中高生とも出会っていました。そこで、長崎と広島、そして大阪の子どもたちに声をかけ、特別編成による合唱団とオーケストラによる「戴冠式ミサ」(モーツァルト作曲)を大阪・関西万博でヴァチカンナショナルデーにおいて披露しました。

  • 音楽には見えない力や可能性を感じます。

    西本 人類は、音や音楽がコミュニケーションの手段であり、安寧をもたらし、鼓舞する力を持つこと、また聴覚だけでは聴こえない音があることや、振動が心身に影響があり、呼吸や心身の健康に関わっていることをいにしえより経験的に知っています。科学の発展によって今まで見えなかったものも見えてきています。異分野と思われていることが連携し、誰もが人類の豊かさを享受する時代になるよう希求しています。教育関係者とも協力しながら、音楽から知ることのできる自然の摂理や、その調和とは何かを次世代の子どもたちに伝えてゆきたいです。

  • 本日は、ありがとうございました。

(聞き手 / 情報サービス局長・村國 聡)