悩みながら見つけた新境地 人と組織の変革屋というキャリア
日本銀行で4年半、マッキンゼーで8年勤務した後に、起業した佐々木裕子さん。企業の組織改革に多数の実績を持つほか、仕事と介護の両立支援にも取り組んでいます。日銀・マッキンゼー時代に人生の迷路をもがきながら、自らを「変革屋」と称する新境地にどうやってたどり着いたのか。変革の要諦とは何か。かつてメガバンクの変革プロジェクトを二人三脚で進めた田村直樹審議委員と語り合います。
チェンジウェーブグループ代表取締役社長CEO
佐々木裕子
SASAKI Hiroko
1973年愛知県生まれ。96年東京大学法学部卒業後、日本銀行に入行。2001年に退職。同年、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。同社アソシエイトパートナーを務めた後、09年同社退職。10年10月にチェンジウェーブを創業。経営層と従業員の創発による事業・組織モデル変革などに本格的に取り組む。16年にはリクシスを立ち上げ、企業を対象とした「仕事と介護の両立支援」に取り組む。24年チェンジウェーブとリクシスによる経営統合でチェンジウェーブグループ発足。現在、同グループ代表取締役社長CEO。三井住友DSアセットマネジメント社外取締役、ソフトバンク社外取締役なども務める。著書に『実践型クリティカルシンキング』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)ほか。
日本銀行政策委員会 審議委員
田村直樹
TAMURA Naoki
1961年京都府生まれ。84年京都大学法学部卒業、同年、(株)住友銀行入行。2009年(株)三井住友銀行東武池袋ブロック部長、10年同銀行関連事業部長、12年同銀行執行役員投融資企画部長、14年同銀行執行役員(特命)、15年同銀行常務執行役員広報部・経営企画部・関連事業部副担当役員、17年同銀行常務執行役員リテール部門副責任役員、18年同銀行専務執行役員リテール部門統括責任役員、21年同銀行上席顧問に就任。22年7月より日本銀行政策委員会審議委員。
写真 野瀬勝一
日銀で見つめ直した生きる道 手触り感を求めて転職
田村 日銀には優秀な人がいっぱいいますが、もっとチャレンジしたらいいのにと感じるところもあるんです。その点、佐々木さんは日銀からマッキンゼーを経て、今はチェンジウェーブグループを率いて企業の事業・組織変革に取り組んでいる。まさにチャレンジだらけの人生を歩んでこられました。
佐々木 私が日銀に入行した1996年は就職の超氷河期でした。日銀も総合職の採用が先輩たちより少なく、同期は30名。女性は私一人でした。
田村 そこからキャリアを積まれましたが、そもそもなぜ日銀に。
佐々木 中高時代は外交官を夢見ていました。でも大学時代に外務省でアルバイトをしたら、想像したのとは違うなと。知的好奇心は強い大学生でしたが、外交官に代わるやりたいことが見つからない。就活でいろんな業界を受けました。その中で、日銀については何をしているのかさっぱり分からないと思ったんです。いろいろ勉強して、お話を伺いたいと面接に行ったものの、やっぱり分からなくて。一方で、面接官から志望動機を聞かれた記憶はなく、「社会を知りたくてバイトをいっぱいしました」とか、そんな話をひたすらお伝えしたところ、まさかの内定をいただいたんです。
入行後は本店の発券局、業務局で研修を受けた後、考査局(現・金融機構局)に配属になりました。
田村 金融危機真っただ中の頃に金融機関への考査を担当された。
佐々木 考査局での担当は、金融機関への立ち入りを行う考査員 ── 当時は不良債権処理部隊ともいえる役割でした。金融機関の資産内容やリスク管理を検証するわけです。新人の女性総合職の考査員は珍しかったと思います。
資産査定の際には、考査員は、新人であろうとベテランであろうと、金融機関の支店長らと一対一で対峙(たいじ)します。債務者の返済能力などについて議論を交わし、その場で債権が回収可能か分類しなければならない。
田村 『半沢直樹』の黒崎検査官のように。
佐々木 当時を振り返ると、若かったが故に、自分が不良債権を査定した場合の影響がどこまで及ぶか、分かっていなかったようにも思いますが、慎重な検証・分析をもとに、適切な判断をしようと、とにかく懸命に査定しました。
大変な毎日でしたが、2年半ほど考査員を担当し、やりがいは感じていました。日銀の中で、一番現場に近い仕事かもと思っていたんですよね。金融機関の方々と直接話をし、時には金庫に入って実際に証票を見たりすることもある。現場のリアリティーが感じられ、面白いなと。
その後、モニタリングに移りました。当時の考査局の金融課 ── 金融機関の資金繰りについて調査したり報告を受けたりする担当です。その仕事を2年ぐらい、日銀を辞めるまで続けました。考査もモニタリングも手触り感があって好きだったんですが。
田村 転職することになった。
佐々木 もともと、明確にやりたいことがあって日銀に入ったわけではなかったんですが、ショックだったのは、日銀の留学対象者選抜試験に落ちたこと。何のために留学し、日銀で何をやりたいか、論文を提出しなければならなかったのですが、何度書いてもイマイチで……。落ちたのは当然です。私は日銀で先々何をやりたいのか、よく分からなかったから。
田村 普通の人は、会社でこれから何をしたいのか考えることなく、目の前の仕事をこなしていく。僕自身も、あまり深く考えずに銀行へ入って、配属された部署で言われたことをやっていただけだったけれど、佐々木さんは留学の志望書をきっかけに「何をしたいのか」を深く考えることになった。
佐々木 それを書けないというのは、やっぱりショックでした。
4年半ほど仕事をして、日銀については一般の人より解像度が上がった。今度は、日銀以外はどんな仕事をしているのか知りたいと思ったんです。現場感のある仕事、手触り感のある仕事を求めていたら、たまたま友人が外資系のコンサルタントだったんです。行きあたりばったりでマッキンゼーに入りました。
私のキャリアは「川下り型」かもしれません。行き先を見定めて登っていくタイプではなく、流れに任せて変えていくタイプです。日銀に入った時も、ずっと勤め上げようと思っていたかというと、そこは柔軟に考えるつもりでしたし、転職する時は勇気より好奇心が先立っていたかもしれないですね。
企業の息吹が動かす経済対話が起こす変革の瞬間
田村 転職されたマッキンゼーでは、どれくらいのコンサルティング案件に携わったのですか。
佐々木 年間4、5件は担当したので、約8年働いた間に40件ぐらいでしょうか。その中で、田村さんとご一緒した仕事が一番印象深いです。
田村 2005年ごろでしたか。三井住友銀行の法人取引を変革するプロジェクトをマッキンゼーにお願いした時ですね。
佐々木 30歳くらいの青二才でしたけれども、プロジェクトリーダーをやらせていただきました。
田村 当時、私は経営企画部の副部長でした。三井住友銀行は変革を迫られていたものの、変革によるマイナス面に気をとられがちであった。
佐々木 「土俵際の厳しい状況だけど、何十年に1回のチャンスでもあるから、どうしても突破したい」という、田村さんからのお電話を思い出します。その熱量に触発され、私たちも短期間で濃度の高い調査 ── 100社の取引先にインタビューをしました。法人部門のグループ長を集めてディスカッションし、戦略・組織設計案を策定し、経営会議に諮り……変革の実行までの半年間、あれほど濃密なプロジェクトはなかったと思います。
田村 100社のヒアリングが説得材料になったのです。銀行の幹部が何と言おうと、取引先の声は何より強い。同様に、日銀も企業ヒアリングの数がすごくて、私のもとに毎日レポートがいっぱい届く。ものすごくためになります。統計を見るだけ、頭で考えるだけではダメですから。実際に経済を動かしている企業の人たちがどう考えているかが大事です。
佐々木 そうなんですね。企業の息吹というか、そういった経済に関わる鮮度の高い情報が日銀に集まっていると知っていたら、もう少し日銀で働いていたかもしれません。
田村 その後、コンサルティング会社のチェンジウェーブを創業したきっかけは何だったのですか。
佐々木 マッキンゼーで上を目指すことに興味が湧かなかった頃、同じ事を考えていた同僚にも触発されて卒業すると決めました。でも、その後も、自分が何をやりたいのか、分からなかったんです。自分探しの時間を半年ほど費やすうちに、ふと、以前担当したプロジェクトでの体験を、思い出しました。営業生産性を上げるプロジェクトで、その時は戦略設計などを書かず、現場の営業に2年ほど伴走させていただいた。すると、営業の方々が一気に変わる瞬間が訪れ、支店全体も変わる ── という変革を目の当たりにしたんです。そんな人と組織の変革の瞬間に立ち会える仕事をしていきたいなと。
ちょうど、チェンジウェーブを設立する頃に、ソニーが新設した変革室で嘱託職員として3年ほど働いていて、そこでも組織変革の醍醐味(だいごみ)を体感できたことも大きかったと思います。
田村 2000年ごろの銀行は窮地に追い込まれていました。追い込まれないと、人と組織は変われないような気がします。
佐々木 余裕がある時に変わる方が楽なはずですけれども、確かにそうかもしれませんね。
田村 これまでのご経験で、企業がうまくいっている時にあえて変革をした、という例はありますか。
佐々木 あります。でもそれは、変革のボールを持ってやり抜く覚悟のあるリーダーと、支える役員がそろった時に初めてできる、という感じですね。その二人がなかなかそろわないですけれども。
田村 その二人のやる気というのは主に性格から来るものですか。
佐々木 いや、危機感と使命感ですね。このままではいつか危機に陥ると感じている。早い段階で動けば、自分が得するどころか、敵をつくるだろうし、楽ではありません。下手をするとぼろぼろになるかもしれない。それでもやる人というのは「どうしても今変えなければ」と覚悟を決めているからでしょう。
今変えなければと感じていても、覚悟が決まらずにためらっている、という人もいます。ノイズや固定観念に縛られたり、自信がなかったり。でも、私たちとの対話を通じて困難をひもといていくと、どこかで「自分はこの目的に向かえばいいんだ」と腹落ちする瞬間が訪れる。そのあとは自走されますね。
先日、ある企業の変革で一緒に仕事をした、先方のリーダーと食事をしたんです。「佐々木さんは、私に『これでいいから突き進め』という覚悟のプロセスを対話によって与えてくれた」と言われて。私は全然自覚がなかったのですが、そういうことをやっているのかもしれないなと思ったんです。
仕事と介護の両立を当たり前にする変革
田村 2016年には企業向けに仕事と介護の両立支援を行う事業会社(リクシス)を創業しました。
佐々木 日本で一番変革しなければいけないアジェンダは何かと考えた時に、高齢人口の増加と生産年齢人口の減少がもたらす介護問題の深刻化だと思ったんです。今、仕事をしながら介護をする人の数が急増しています。私自身も東京で子育てと仕事をしながら、地方にいる母を遠距離介護した経験があります。介護で離職をしたり長期休業をしたり、また収入や生産性を落としたりすることなく、仕事を続けるには何が必要か。それを探求しているところです。
田村 仕事と介護の両立は日本の課題であり、佐々木さんご自身の課題でもある。
佐々木 自分のための事業みたいですけれども、仕事と育児の両立が当たり前にできるようになった一方で、仕事と介護の両立は暗い雰囲気が付きまとっています。多くの人は親の介護が自分事になるまでふたをしているんです。だけど、いかに早く準備しておくか、介護リテラシーがあるかどうかで、仕事との両立体制をつくれるまでの日数が全然違ってきます。
介護は情報戦です。仕事と介護を両立させる選択肢はいろいろあるのですが、育児との両立ほどシンプルではないので、自分のケースに適した選択肢を探し出すのが難しい。まずはそこから解決していかなければいけません。
また、介護は固定観念がすごく強い領域です。「介護は家族が見るべきもの」とか「介護とは認知症や寝たきりの世話」といった観念にとらわれていると、限られた家族介護者が我慢しなければいけなくなります。そうした固定観念を崩す啓発もしなければいけない。ですから、リクシスの事業も変革屋っぽいプロセスになる。情報提供、啓発、概念転換、両立の実現と、息の長い事業になりそうです。
田村 企業は介護休業・休暇制度をつくっても、親の介護が必要になった時の選択肢など、十分な情報を社員に与えていないところが多いように思います。
佐々木 そもそも、仕事と介護の両立について、企業は実態をつかめていません。育児との両立をしている社員数は把握していますが、介護との両立をしている社員数についてはデータをほとんど持っていない。介護をしている多くの社員は、介護休業・休暇を使わずに仕事を続けているからです。
加えて、介護の構造変化がすごく速い。いわゆる「嫁介護」が急激に減少し、実子による介護が増えています。私たちの調査では、「すでに介護が始まっている、もしくは、自分に介護の問題が3年以内に起きると感じている」ビジネスパーソンは全体の半数を超えています。しかし企業はそんな実態をつかめない。そこにどうして投資しなければいけないのか、とさえ考えています。国(厚労省や経産省)もその啓発に力を入れていますが、私たちもその動きと連動させていただきながら、現場で仕事と介護の両立を巡る問題に変革をもたらしたいのです。
田村 日銀からマッキンゼーを経て起業され、ここまで順調に歩んでこられたように見えます。
佐々木 いえ、七転八倒しながらやってきました。いろいろな出会いに助けられてここまで何とか来ているというのは間違いないですが、変革屋として世の中を変えるサポートができているかという点では、もうちょっと頑張っていかなければいけないと。もう一つ、私にとっては娘がどういう大人に育っていくか、それも大きなプロジェクトです。ただし、あまり口出しはせずに。世の中に新しいダイバーシティーの芽が育つことを惜しみなく支援していきたいというのが、私のマインドシェアとしては大きいですね。
田村 本日はありがとうございました。
