インタビュー / 扉を開く
縁と情熱が創る氷上のアーティスト
高橋大輔(プロフィギュアスケーター)
フィギュアスケート男子シングルで日本初の五輪メダルを獲得し、アイスダンスでも数々の快挙を成し遂げた高橋大輔さん。7歳でスケートリンクに通い始め、日本男子フィギュア界のパイオニアとなるまで、多くの「見えない支え」に導かれたと言います。現役引退後、将来の選択に迷った時には、自分自身で生き方の「軸」を見いだしました。柔和な人柄をしのばせる語り口で、これまでの歩みとこれからの道を話していただきました。
取材・文 小堂敏郎
写真 野瀬勝一
大人になってから知った家族や周囲の応援と支え
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7歳の頃にフィギュアスケートを始められたそうですね。
高橋 兄が少林寺拳法をやっていて、表彰によっていただいた賞状や記念品を見て「僕も欲しい」と言ったのがきっかけで、両親が何かスポーツをさせようと思ったらしいです。たまたまスケートリンクが自宅から車で10分ぐらいの場所にあって。アイスホッケーは防具が怖くて嫌だと僕が言ったので、フィギュアスケートを始めることになったそうです。
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小さい頃からオリンピックに出たいという思いはあったのですか。
高橋 トップを目指そうみたいな気持ちは全くなかったです。僕が通ったリンクはプロのコーチがいなくて、英才教育みたいな指導を受けるというより、みんなで楽しくやるという感じでした。僕は学校があまり得意じゃなかったので、リンクが逃げ場みたいな感じにもなっていました。そこがすごく楽しくて、それでフィギュアスケートにハマっていったのかもしれないです。
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最近では子どもの部活動や習い事にかかる費用で悩む保護者が少なくありませんが、フィギュアスケートの場合、スケート靴だけで相当かかるという話を聞きます。
高橋 そういう話を両親はあまりしなかったです。だけど、裕福な方ではなかったので、家計が大変なのは知っていました。母は理容師でしたが、夜もお弁当屋さんのパートで働いて、さらに理容室のお客さんも寄付してくれたりして、僕を応援してくれたそうです。衣装は特にお金がかかるから、親戚のおばちゃんが作ってくれて。でも、そのようなことを知ったのは僕が大人になってからでした。
兄たちも協力してくれました。練習で帰りが遅くなると夜9時を過ぎたりするんですけど、「晩ごはんはみんなで」というわが家のルールに兄たちが巻き込まれて……。でも文句も言わずに僕の帰りを待ってくれていたんです。
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中学時代の長光歌子コーチとの出会いが世界を目指す転機になりました。
高橋 長光コーチは、仙台で行われた合宿でたまたま指導を受けることになり、僕にフリープログラムを初めて作ってくれました。『ワルソー・コンチェルト』という大人っぽいピアノ曲です。僕は小さい時に、アイスダンスを見るのが好きでしたが、練習で表現力がないとか踊れないとか言われて、踊るプログラムをする機会があまりありませんでした。見るだけだったので、悔しかったんです。でも長光コーチに出会い、初めて踊るプログラムを作ってもらった時に「演技って、こんなに楽しいんだ」と気付くことができた。それから海外に行ったり、一般滑走のリンクで踊りまくっているスケーターに魅入ったりするようになり、自分も人前で踊ることに抵抗がなくなりました。「表現をする」って格好いいなと。そんなきっかけがなかったら、フィギュアスケートの試合で表現やステップを見せようとはしなかったと思います。
中学3年になると、週末は大阪にある長光コーチの自宅に滞在して、そこから試合とか仙台での練習に連れて行ってもらいました。コーチは自腹で帯同してくれたようです。僕は、見えないところでみんなに支えてもらっていたんです。
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ごく普通の家庭で育ち、全日本選手権から世界選手権、五輪まで輝かしい実績を残されたのは、本当に夢があることですよね。
高橋 すごく運がよくて。
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才能がおありになった。
高橋 いやいや、家族を含め、いい人たちとの出会い、導きが多かったので、その方々のおかげだなと。本当にそれに尽きると思っています。
日本男子初の五輪メダルから引退を経て見つけた「自分軸」
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高橋さんが2010年のバンクーバー五輪で日本男子初のメダルを取るまで、フィギュアスケートは女子が注目を浴びていました。そういう中で、自分が道を切り開かなければというプレッシャーはなかったですか。
高橋 先輩の本田武史さんがソルトレーク五輪でメダルまであと一歩(4位)だったのを見ていました。僕もそこまでは行ける、そして超えたいという思いがあったので、道を切り開くプレッシャーというより、先輩の背中を追いかけているという感覚の方が強かったです。
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しかし、バンクーバー五輪まで1年半という大事な時期に右ひざに大けがを負い、半年以上のリハビリ生活を余儀なくされました。不運だなとは思いませんでしたか。
高橋 いや、逆に「休める! 運がいいな」と思って。もちろん、けがをしたことによって不具合は生じているので、けがをしないのがベストですけれども、僕としてはメンタル的にきつかった時期だったんです。(2005年から指導を受けてきた)ニコライ・モロゾフコーチが突然、別の選手のところに行き、長光コーチとの二人三脚に戻った頃でしたが、フォローに回っていた長光コーチから指導をまたすぐに受けられるかというと、なかなか難しくて。何をしたらいいのか分からなくなってしまいました。けががなかったら、五輪前に精神的に追い詰められていたかもしれません。
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ご自身のメンタルの強度はどれくらいだとお考えですか。
高橋 あまり強くはないです。でも、楽観的ではあるかもしれないですね。期待を自分にかけるのではなくて「もう、どうしようもなくね?」みたいなところは持っていると思います。結構揺れやすいですけど、揺れまくるのも自分かなと受け止めていますね。
どれだけ準備していても試合に向かえないときがあるんです。自分に期待しているとダメで、諦めているときの方が強いというか、「もう仕方ない、今はこれしかできないんだから」という境地に達したときが強いなと思っています。
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バンクーバー五輪の試合前はどのような心境でしたか。
高橋 バンクーバーはちょっと特殊でした。荒川静香さんのトリノ五輪での金メダル獲得を間近で見させてもらった時、荒川さんが五輪というものを本当に楽しもうとしていた。だからこそあんなに落ち着いた演技をされた。僕はバンクーバーに入るまで、けがのリハビリ中は誰かと戦うというより自分との戦いみたいなところがあったんです。でも、何とか乗り越えて、調子も上がってきて、バンクーバーのリンクで練習をしている時に、やっと「僕、戦えている!」と思って、戦えることが楽しくなりました。荒川さんの姿も思い出して、戦うことを楽しもうと。国の税金も使って五輪に出ているので代表として頑張らなければいけないんですけれども、その時は「五輪を全力で楽しんでやろう、もうここまでしかできない、この中で勝負するぞ!」という気持ちでした。
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表彰式でメダルを手にした時はどんな気持ちでしたか。
高橋 めちゃくちゃうれしかったんですけれども、真ん中には立てなかったという悔しさが意外にありました。でもうれしかったんですけどね。
フリーで自分より後に残っている人の得点次第で自分の順位が決まる……ここをキープしてくれとあんなに願ったこともなかったです。
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ソチ五輪でも入賞を果たし、一度現役を引退されます。その4年後に復帰されたのは、どのような変化があったからですか。
高橋 もともとバンクーバーでやめようと思っていたのですが、「ソチまでやります」みたいなことをメディアの前で公言してしまって。だけど、ソチまでの4年間、自分の力がどんどん出せなくなっていっているなというのを感じていました。結局、6位に終わって、もういよいよ本当に無理だと。その時はやめる選択しかなかったんです。何か次に大きな目標があったわけでもなく、引退してからの日々はきつかったですね。
とりあえずスケートはしたくないし、やりたいこともないので、語学留学に行きますといって米国に逃げたけれど、日本で仕事をいただくことができて戻ってきました。いろんな仕事をさせていただく中で、苦手なこと、好きなことが明確になってきた。その結果、スケートというものがやっぱり自分の軸になっているなと。それまではスケートしかできないというのがコンプレックスでした。だけど、「自分にはスケートしかないんだ」と、そう受け入れることが、やっとできた。マルチタスクにいろいろできるタイプでもないので、現役復帰しようと決めました。
エンタメ界で新たに挑戦する「小劇場感覚」のアイスショー
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現役復帰後、シングルから転向したアイスダンスでも数々の快挙を成し遂げました。
高橋 シングルに復帰した時、あるコーチに「昔からアイスダンスも好きなんですよ」と打ち明けたことがあったんです。そうしたら、その後アイスダンスでペアを組むことになる村元哉中(かな)さんから「一緒にどうですか、私は大ちゃんとアイスダンスの世界を見てみたい」とオファーをいただきました。当時、僕はアイスショーに誰かと組んで出ても、自信を持ってできなかったんです。いつか堂々とできるようになりたいと思っていたその矢先に、オファーが来た。そのとき僕は34歳だったのかな。35歳を過ぎたらイエスとは絶対言えないな、これはぎりぎりのタイミングだなと。ダメだったらダメでいいやとも思って、「やります」と返事をしたんです。
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アイスダンスへの転向は、良い選択でしたか。
高橋 やはり大変でしたけれども、本当に良かったと思っています。スケートの奥深さをより知ることができましたし、そこから今の仕事とのつながりもめちゃくちゃ増えましたから。
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38歳で競技生活から引退後、アイスショーのプロデュースにも挑戦されています。2024年2月の初演から再演の続く『滑走屋』は、「小劇場のような感覚のアイスショー」が一つのコンセプトです。
高橋 『滑走屋』は当初、海外から選手を呼んで、従来のイベント型のショーにすることを考えていました。だけど、お金がかかり過ぎるなと。むしろ、日本人だけで、それほど大きくない箱(常設リンク)でやる。そうすることでチケット代をできるだけ手頃に抑えて、お芝居や映画を見る感覚で来てもらえるアイスショーが実現できたら面白いと思ったんです。
演者も、プロのスケーターではなく、アイスショーの経験がない日本の若手選手を中心にお声がけしました。もし僕自身が16歳ぐらいの時にショーに呼ばれたら絶対出たいと思っただろうと、そう考えたからです。
『滑走屋』で舞う高橋大輔氏 ©Shutterz
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競技とは違うエンターテインメントの世界での挑戦ですが、どのようなことを感じますか。
高橋 自分の世界観を、多くの方々に創り上げてもらい、演じていただけるというのは、こんなにも素敵なことなんだと。創作の過程では、個で進むより多数で進んだ方が、アイデアの質は上がるということも感じています。フィギュアスケートだけじゃなくて、アイスホッケーやスピードスケートの方々とも融合できたら面白いだろうなとも考えています。スケート界の発展のためにも、同じ氷つながりで、いつか何かやれたらいいなと思っています。
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次を担う若者に伝えたいことは。
高橋 僕は今の時代だったらオリンピックに行けなかったと思います。運が良かったと思うんですけれども、あまり決めてこなかったからこそ、良かったのかなと。一つの目標があり過ぎると、こだわり過ぎて、大切なものが見えなくなることがあると思うんです。でも、漠然と、「何となくこうなれたらいいな」というイメージさえあれば、全然違う道に行ったのに、結果として、目指していた場所にたどり着いたり。寄り道の過程でもっと面白いものに気付いたり、思ってもみなかった自分の新たな一面に気付くこともあるかもしれません。近道で早く行こうとするよりは、「何となくこうなれたらいいな」ぐらいのところから、小さい目標をどんどん増やしていく方が気も楽だし、いいのかな。もし、自分を追い詰めてしまいそうになったら、一度離れてみるのもいい。やめてみることで、改めてその良さや大切さに気付くこともあるから。
あと、長く続けるというのが一番大事なことだなと感じます。僕自身、何十年も続けて初めて気付くこともたくさんあります。切り替えて違うことを始めるのも、早い段階で答えを決めるんじゃなくて、もうちょっと時間をかけて考えてから決めてもいいんじゃないかな、と思います。
- 本日は、ありがとうございました。
(聞き手 / 情報サービス局長・村國 聡)
