インタビュー / 扉を開く
共生社会へ導く「当事者研究」の可能性
熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター教授、小児科医)
運動機能に障害を抱えながら、東京大学医学部を卒業し、小児科医、研究者としてキャリアを重ねる熊谷晋一郎さん。先輩の障害者の生きざまを見て、社会の側を変えていけば生きていけると希望を持ち、数多くの人に支えられることで自立できたという。困りごとを抱えた本人が人生や経験を深く掘り下げる「当事者研究」は、社会の少数派だけでなく多数派にこそ必要だとする熊谷さんに、共生社会実現に向けた展望を語っていただいた。
取材・文 小堂敏郎
先輩の生きざまに希望を見いだし多くの人に依存して自立を果たす
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熊谷先生は脳性まひの影響で、生まれながらにして運動機能に障害を抱えられています。小さい頃はつらいリハビリの日々を過ごされたそうですね。
熊谷 私は1977年生まれですが、当時は今ほど多様性を認めず、均質性をよしとする時代でした。障害者は健常者に近づけてあげないと幸せになれないという考えが主流だったように思います。私の親は愛情深かったが故に、私を健常な子どもに近づけるのが親心だと思い、5、6時間のリハビリを日課にしました。当時のリハビリはスパルタな訓練が多く、痛くてよく泣き叫んでいた記憶が残っています。
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当時はリハビリをすれば良くなると考えられていたんですね。
熊谷 統計学的根拠がなくても「権威ある先生が言ったこと」が正しいという医療実践が行われていた時代でした。「脳性まひは一生懸命リハビリすれば93%完治する」といった、今からみればずさんな論文や専門知が社会を覆っていました。親からすれば、93%治るというのにリハビリをしないなんてかえって虐待じゃないかと、そう考えてもおかしくなかったと思います。
私が小学校に入る頃の1980年代半ばから、統計学的根拠に基づく医療が台頭してきて、脳性まひへの長期リハビリは治療効果がほとんどないと証明されました。そうして私はつらいリハビリから解放されたのです。
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その頃から社会のあり方に関心を持ち始めたのですか。
熊谷 70年代から80年代は、変えるべきは私たちの身体ではなく、社会環境が私たちを受け入れられるように変わるべき、と主張する障害者運動が活発化した時期です。私の地元でも障害者が市役所に押しかけていたのですが、対応していたのは障害福祉課に勤める私の父親だったんです。週末になるとその障害者の方と中学生になった私を引き合わせてくれました。
そこでは私よりも重い障害がある先輩たちが、リハビリをして健常者になろうとするのではなく、何十人もの介助者に支えられながらアパートを借り、お酒を飲んだりカラオケに行ったり、人生を謳歌(おうか)していました。そんな生きざまに、「なんだ自分の体のままで堂々と生きていていいんだ、社会の側を変えていけば生きていけるんだ」ということを見せつけられ、その瞬間、「これで生きていける」と思いました。
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特定の一人ではなく、多くの介助者に支えられていることが重要なんですね。
熊谷 私自身は、小さい頃から身の回りのことは全て親に世話をしてもらっていました。それはそれでありがたいことなのですが、小学生になる頃、ふと人間はいつか死ぬということに気付き、親が死んだらどうなるんだろうと、ものすごく怖くなりました。親もいつか死ぬ。その親だけに頼っていては私の未来はないとずっと感じていたんです。
そんな思いを抱える中で、先輩の障害者たちがたくさんの介助者に支えられて生活しているのを見て、私はそこに希望を見いだしました。ある先輩は「介助者は30人以上キープしなさい」「親のようにケアの上手な少数の介助者に頼ってはいけない」とアドバイスをくれました。「その誰かに裏切られたらおしまいだから、とにかく人数だ」と言われ、本当にそうだなと思いました。後にこのことを「自立とは依存先を増やすこと」と言語化できましたが、その原体験はこの頃にありました。
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大学入学で上京したのを機に、いよいよ一人暮らしを始められました。
熊谷 大学に入学した95年当時はまだ福祉制度もそれほど整っておらず、最初は同じ高校の出身者5、6人にシフトを組んでご飯や着替えなど生活を手伝ってもらいました。その代わりにお風呂に入らせてあげたり、泊まらせてあげたりして、物々交換みたいな感じですね。その後、障害を持つ方を介助する大学サークルや法律関係のゼミに入って、そのメンバーたちに助けてもらったり、介助者が徐々に増えていきました。気付いたら私のアパートの鍵が8本まで増えていて、帰ると「お帰り」って、シェアハウスみたいになっていましたね。
失敗できない医療現場で味わった孤独と安心
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東京大学に入学した当初は数学者を目指されていたそうですね。
熊谷 小学生の頃から算数がすごく好きでした。頭の中に平面を広げて点Pが回転するとか、そういうのが、自分の体ではできない自由な運動みたいなものを可能にするような感じがして、数学者になりたいと思っていたんです。
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医師志望に変わったきっかけはあったんですか。
熊谷 大学に入って不特定多数のいろいろな人に出会うことで、人との関わりというのはこんなに面白いものなんだということに気付き、人間の多様性を全部知っておきたいという知的好奇心が出てきました。いつの間にか数学をあまりやらなくなっていて、もっと人や社会に関わる勉強ができるといいなと。最後まで相関社会科学という新しい分野と迷いましたが、最後は「えいやっ」と自分の勘で決めました。
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2001年に大学医学部卒業後、小児科の臨床医の道を選ばれました。
熊谷 病棟実習で小児科に行った時、手足の自由が利かない自分では難しいかなと最初は思ったんです。でも、障害や病気で治療を受けている親子の姿に、かつての自分の経験と非常に重なる風景がそこに広がっていて、子どもも親も慕ってくれる感じというか、親近感を持ってもらえる感触があり、チャレンジしてみようと小児科を選びました。
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実際に臨床医になってみると、多くのご苦労があったのではないですか。
熊谷 大学病院で勤務した研修医1年目は私にとって一番大変な時期だったと思います。幼少期のリハビリは確かに大変ではあったけれども、物心つく前から始まったので、どこか受け入れていたようなところもあります。一人暮らしも慣れるまでは大変で、トイレを失敗して漏らしたりしましたが、失敗しても対策を練れば道は開けると、楽観的な人生観を持っていられました。しかし医療現場で私が失敗すれば、対価を払うのは私じゃない、患者さんです。「失敗してはならない」という強い規範が、私の前に立ちはだかりました。
例えば、採血は小児科医がマスターしなくてはいけない手技(しゅぎ)ですが、それには練習して熟練することが必要です。新人の研修医は未熟さ故に必ず失敗するので、上司が頭を下げて患者さんの協力を得て、教育的な観点からチャレンジの機会を与えます。この試行錯誤の機会は「実験的領域」と呼ばれています。
でも私の場合、採血に失敗したら、原因は私の未熟さにあるのか、それとも私の障害にあるのか、どちらなのか誰も分からないし、私も分からない。結局、上司はリスクマネジメントの観点から、私を採血が必要な患者の担当から外さざるを得ないわけです。同期の研修医が実験的領域を与えられて一人前に育っていくのを尻目に、私は実験的領域を失って置き去りにされる経験をしたのです。
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研修医の2年目は民間病院に移って、環境が大きく変化したそうですね。
熊谷 すごく忙しい病院で、スタッフ全員が、助け合わなければ自分一人ではこなせない仕事量を抱える職場でした。ある意味、皆が仕事量との関係では障害を抱えているという認識が共有されていました。だからこそ、おのおのがパーフェクトである必要はなく、自分ができることとできないことを知り、あの人は何が得意で何が苦手かお互いをよく知ることが大事だというカルチャーが存在していたんですね。
そこでは、私の存在もパーフェクトではない同僚のうちの一人にすぎず、特別な障害者ではなくなりました。上司からは「失敗したら自分が責任を取るから思い切ってやれ」と。私は初めて実験的領域を付与されて、採血ができるようになったんです。チームワークの持つ力を実感する経験でした。
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この経験が後の「高信頼性組織研究」につながっているんですね。
熊谷 私は福島の原発事故後、「高信頼性組織研究」という領域を知りました。原子力潜水艦や空港の管制、医療現場など、アクシデントが甚大な被害を及ぼすような、緊張感あふれる特殊な組織を高信頼性組織と呼びますが、そうした組織が備えるべきカルチャーとして、心理的安全性(安心して自分の意見や考えを表明できる状態)やジャストカルチャー(失敗を許容して学習を最大化する文化)が挙げられます。それらは研修医2年目の病院をはじめ、私が働きやすかった職場には必ずあったんです。私が働ける職場が「重大な」失敗を生じさせない職場なのかもしれないと思えた時に、私のエゴだけじゃなかったという気持ちになれました。
「当事者研究」で発明した言葉を社会に流通させる
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その後は研究の道に進まれます。「当事者研究」を通じたさまざまな研究をされていますね。
熊谷 「当事者研究」は自分と似た経験をもつ仲間との共同研究を通して、自分の経験を掘り下げる取り組みです。研究を始めたきっかけは、綾屋紗月(あややさつき)さんとの出会いでした。綾屋さんは、私が大学で立ち上げた手話サークルの先生でしたが、耳は聞こえるのに人前に出るとしゃべれなくなってしまうので、手話でコミュニケーションを取っていました。手話でしか話せないのは綾屋さん自身にも謎で、それ以外にもよく理解できない自分の性質がずっとあったというんです。
綾屋さんは後に自閉症と診断されるのですが、専門家による自閉症の説明は自身の経験とは違っていて、むしろ自閉症の当事者が書いていることの方がフィットすると感じていました。そこで、07年から綾屋さんと共同研究のような形で、当事者から見た自閉症の語り直しを始め、翌年、研究成果をまとめた共著『発達障害当事者研究 ― ゆっくりていねいにつながりたい』を出版しました。
そこでは「コミュニケーション障害は、人の中にあるものではなく、異なる背景を持った人と人との間に発生する」という仮説を主張したのですが、その後の研究でかなり実証されてきて、自閉症の定義が随分変わりました。自閉症はコミュニケーション障害ではなく、世界の見え方や身体の感じ取り方が平均と違うということなんだと。だから、見え方が近い自閉症者同士であればコミュニケーションがうまくいくということが分かってきたのです。
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世界の見え方が異なる人同士がコミュニケーションをうまく取るにはどうすればよいのでしょうか。
熊谷 われわれはいろいろな経験を言葉によって伝えようとしますが、世の中に流通する言葉は多数派の経験を表しやすいようにデザインされています。その結果、少数派はその経験を伝えるための言葉が見当たらない状況になることがあるんです。
こういう両者の間にある不公平な状況のことを「解釈的不正義」と呼びます。そこで、似たような経験を持つ少数派の人同士が対話して新しい言葉やフレーズを生み出し、社会に流通させていく。言葉の発明に近いですね。それを通じて、解釈的不正義を是正しようとする取り組み、ここまでが当事者研究なんです。
そして、共生社会においては、それぞれのコミュニティで生み出された独自の言葉を互いに理解することが重要です。互いの言葉の翻訳プロセスをどのようにサポートしていけるのかが目下の課題で、科学技術振興機構のムーンショットというプロジェクトの中で、さまざまな分野の研究者と「自在ホンヤク機」の開発を進めています。
多数派こそ自らの人生を掘り下げ物語る言葉が必要
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共生社会を実現していくためには、多数派にも当事者研究が必要なのでしょうか。
熊谷 われわれは小説とか映画で感動することがありますが、自分の人生と全く異なる物語になぜ感動するのでしょうか。それは、異なる物語の間に共通するストーリーの骨格を抽出できる力が備わっているからです。でも、自分の物語がまとまっていなければ、この抽出は不可能です。したがって、自分の人生を深く掘り下げている人ほど、他者の物語に共感できるということが分かります。すなわち、自分の人生の固有性をしっかり掘り下げた人は、異なる物語の間の共通骨格を抽出できる確率が上がり、そこに共通点を見いだして共感できる。逆に、自分の人生の表層しかなぞっていない人は、誰の人生の物語を見ても共感できないかもしれません。逆説的ですが、おのおのが自己の固有性を掘り下げると、バラバラなのに共通性が際立ってくるんです。
最近は、企業において当事者研究を実践する機会も増えていますが、少数派も多数派も関係なく、一人一人が自分の立場を掘り下げていくと、不思議なことに、最終的にたどり着く場所が近くなっていくということがしばしば生じます。その先に共生社会が実現していくのではないでしょうか。
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人々の共通理解を壊そうとする外的な力に対し、強靭(きょうじん)な社会を作るにはどうしたらよいでしょうか。
熊谷 昨今の社会をみると、自分を多数派と思っている人たちの中に、憤りやモヤモヤした感情をうまく言葉にできておらず、実は解釈的不正義の状況に置かれている人が増えているように感じることがあります。自分の経験を言葉にできていない人は、自分の代わりに自分の経験を説明してくれる他者の言葉に弱いところがあります。権力者や影響力のある人の発言を聞いて「この人の言っていることで全部私の苦しみの説明がつく」と思ってしまう。他方、自分自身の経験を語る言葉を当事者研究で発明できた人は、他者の言葉をうのみにせず、冷静に吟味し、合わないところは弾き返すことができます。今の時代においては、当事者研究は多数派にこそ重要だと思っています。
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現在の世界情勢に危機感を持ってらっしゃるんですね。
熊谷 解釈的不正義がまん延する時代は、皆が孤立してしまいます。自分の経験を語る言葉がないので、どうせ私のことは誰も分かってくれないとなる。そこで偉い人が「全部分かっているよ」と言ってくれると、わっと飛びついてしまうんです。アーレント(注)が「孤立というのは全体主義の肥沃な大地」だと言いましたが、本当にそうだと思います。そうした時代には、当事者研究によって解釈的不正義を是正していく実践が本当に重要になってきていると感じています。
- (注)ハンナ・アーレント。ナチスの迫害から逃れ米国に亡命した政治思想家。著書に『全体主義の起源』『人間の条件』など。
- 本日は、ありがとうございました。
(聞き手 / 情報サービス局長(取材当時) 小牧義弘)
