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【対談】歌舞伎俳優 片岡仁左衛門氏 vs 高田創審議委員
(広報誌「にちぎん」No.83 2025年秋号)

歌舞伎の「心」を表現する芸は言葉の壁も超えて人を魅了する

守・破・創のロゴ

歌舞伎の重要無形文化財保持者(人間国宝)十五代目片岡仁左衛門氏は、爽やかな容姿と口跡(こうせき)で立役(たちやく)を演じ、観客を魅了してきました。海外公演にも参加し、歌舞伎の魅力を国際的に高めています。仁左衛門氏の芸の特徴はどこにあるのか。歌舞伎通で、「孝玉コンビ」以来の大ファンという高田創審議委員と語り合い、芸の核心に迫ります。


片岡仁左衛門氏の写真

歌舞伎俳優
片岡仁左衛門
KATAOKA Nizaemon

1944年大阪生まれ。十三代目片岡仁左衛門の三男。本名は孝夫。屋号は松嶋屋。1949年9月大阪・道頓堀の中座で片岡孝夫を名乗り初舞台。「夏祭浪花鑑」の市松役。64年7月大阪・朝日座での第三回仁左衛門歌舞伎「女殺油地獄」の与兵衛役で初主演。71年東京・新橋演舞場で若手中心の「花形歌舞伎」がスタートし、大役を多く勤める。十五代目坂東玉三郎とともに「孝玉ブーム」を起こしスターダムへ。98年片岡孝夫を改め、十五代目片岡仁左衛門を襲名。2006年紫綬褒章を受章。15年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。18年文化功労者顕彰。23年第71回菊池寛賞を受賞。ほかにも受賞多数。日本芸術院会員。

高田創審議委員の写真

日本銀行政策委員会 審議委員
高田 創
TAKATA Hajime

1958年神奈川県生まれ。82年東京大学経済学部卒業、同年、(株)日本興業銀行入行。86年オックスフォード大学開発経済学修士課程修了。99年興銀証券(株)市場営業グループ投資戦略部長、2000年みずほ証券(株)市場営業グループ投資戦略部長、11年みずほ証券(株)執行役員グローバル・リサーチ本部副本部長。みずほ総合研究所(株)常務執行役員、専務執行委員、副理事長エグゼクティブエコノミストを経て、20年岡三証券(株)グローバル・リサーチ・センター理事長エグゼクティブエコノミストに就任。22年7月より日本銀行政策委員会審議委員。

写真 野瀬勝一

関西歌舞伎が斜陽の頃役者として生きる決心

高田 片岡さんの舞台を初めて拝見したのは1983年、まだ本名の孝夫さんの頃、旧歌舞伎座で(五代目)坂東玉三郎さんを相手役に演じられた「東海道四谷怪談」の伊右衛門でした。いわゆる「孝玉コンビ」の優美さに感激して大ファンになったんです。

片岡 ありがとうございます。

高田 1998年に十五代目仁左衛門を襲名されてからも毎年のように歌舞伎座などで拝見し、中でも印象深かったのは2011年にお孫さんの千之助さんとお二人で披露された「連獅子」の舞踊です。今年も「彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」の六助に大変感動しました。

関西でお過ごしになられた幼少期について伺いたいと思います。お生まれは大阪で、その後京都に移り住まれていますね。

片岡 1歳の時、大阪空襲で焼け出されて、物心ついたときは京都なんですよ。戦後間もない頃の京都は傷痍(しょうい)軍人さんや進駐軍の兵隊さんもいらして複雑でしたけれども、ご近所さんとも家族的なお付き合いでした。世の中が大変な状況でも今よりある意味なにか温もりがあったような気がします。

私は8人兄姉妹の7番目で、兄が二人います。京都・南座のすぐ近くに住んでいましたので、それこそ劇場が遊び場。屋上で遊んだり、『幕間(まくあい)』という歌舞伎雑誌を刊行していた会社に姉たちに連れられて行き、先輩方の写真を見て子供ながらに楽しんだり。兄たちは先に舞台に出ていましたから、いずれは自分も舞台に出ると思っていました。

高田 初舞台は5歳、大阪・中座で「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の市松を演じました。

片岡 住まいは京都でしたけれども、公演はほとんど大阪でした。中座は当時、米ブロードウェイのように劇場が立ち並んでいた道頓堀の一角にありました。千日前には大阪歌舞伎座という、東京の歌舞伎座より収容人数の多い劇場もあり、子役でも毎月のようにいろいろなお役があったんです。

ただ、仕事のために学校を早退したり、忙しければ1カ月休むこともあった。そうすると、どうしても勉強がみんなについていけない。兄たちもそうだったんでしょうけれども、二人は頭がいいんです。私だけ頭が悪かった。先生に指名されて答えられなくて、立たされたりするわけです。お稽古事で放課後友達と遊ぶこともほとんどありません。「とんでもない家に生まれてしまったな」と思うときもありました。

高田 梨園のお生まれでも、役者以外の道をお考えになったことがあったのでしょうか。

片岡 (昭和30年代に)関西歌舞伎が斜陽になり、お芝居がなかなか開かなくなりました。東京の歌舞伎は盛況でしたが、今と違って関西松竹と東京松竹では経営が別でしたから関西籍の役者が東京の舞台に出られることはあまりなかったんです。私は、このままでは食べていけないと思い、以前から商売に興味があったので、そちらのほうへ行こうと考えました。でも軍資金がない。では三味線弾きになろうと思って、義理の兄が清元の家元をしていたので相談したら「プロになるには今からでは遅い」と。当時は歌舞伎より映画が盛んで、若手の萬屋錦之介さん、市川雷蔵さん、大川橋蔵さんや他にも多くの役者さんが映画に行かれて活躍されていました。私もそちらの道に進もうと思って、ある映画会社の社長さんにお話しをしていただいたら「今まで映画会社から声がかからなかったのはスターになる要素がないからだよ」と、断られたんです。

そんな頃、一般のお家からこの世界に入ってこられた人たちが懸命に自主公演をしていました。自分たちでスポンサーを見つけ、デパートの貸しホールなどで行う3日ほどの勉強芝居です。役者の家の生まれでない人たちが一生懸命頑張っている。それなのに江戸時代から続く片岡の家に生まれた自分が逃げ出していいのか。私は、気持ちを入れ替えました。役者で生きる決心をしたんです。

二枚目や善人よりも「悪役」に惹(ひ)かれる

高田 当時、お父様の十三代目も関西歌舞伎の灯を守ろうと周囲の反対を押し切って「赤字は家を売って」と決意されて自主公演の「仁左衛門歌舞伎」を旗揚げされましたね。

片岡 はい。その時は家族会議を開いて決めました。皆さまの温かい応援と協力を得まして赤字は出さずに5年続きました。

高田 その公演で片岡さんは「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」の与兵衛役を勤められ、それが出世芸になりました。歌舞伎は同じ演目を繰り返し上演しますが、お父様をはじめ、数々の名優たちが演じた役を勤めるとき、片岡さんはご自分の色をどう出されるのでしょうか。

片岡 自分の色を出そうと思ったことはないですね。ただ、伝統歌舞伎といっても昔のお芝居をそのままやっていたのではダメだと思います。その時代に合った演じ方に工夫をしていかないと。例えば同じ言葉でも昔と今で意味が違ったりすると、お客さまは「?」となられる。ですので、分かっていただけるように台詞(せりふ)を直したりもします。でも、まったく新しいものばかり取り入れてやるのもどうかと思うんですね。先輩方が築いてこられた歌舞伎の技法をさらに磨きをかけ、昔の人の生き方を演じながら今のお客さまの心をとらえて楽しんでいただく。ただそういうことを考えて演じていて、自分の色などは考えたことがないですね。

高田 歌舞伎も台本みたいなものがあるかと思いますが、その中の台詞を直したりされるのですか。

片岡 自分が読み返さないと理解しにくい台詞は、一度しか耳にされないお客さまにはもっと理解するのが難しいでしょう。そうしたものは直していきます。あるいは義太夫の語りを台詞にして言ったり。今の「ありさま」とか今の「状況」などに用いる「仕合せ」という台詞が耳に入ってきますと、「幸せ」ととられてしまいます。ですから、こういうところは直します。

一方で、今と昔で意味が違ってもニュアンスで分かる台詞もあるんです。そういう台詞は大事にして、そのまま演じています。また、まわりくどく長々と説明する台詞も要点をつかんで短く直すこともありますね。

高田 歌舞伎の公演は何日も続きますが、初日は緊張なさりますか。

片岡 それは緊張します。

高田 そういう中で、どうやってベストパフォーマンスを出すようになさっているのでしょうか。

片岡 いや、もう開き直りですよ(笑)。初役で出る場合、今でも震えるときがありますしね。とにかくやけくそでやってしまうんです(笑)。ただ、私たちは諸事情で3回くらいしか稽古ができないので、初日が開いてから千秋楽までの間に、私の場合演技は変わっていきます。役への気持ちに変化があるから、それに伴って台詞の言い回しや動きが変わることがあるんです。

お客さまが違えば舞台の雰囲気も変わりますし、今まで再演を重ねても気が付かなかったのに、急に台詞の言葉の「裏」に気付いたりすることもありますね。

「恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)」に「新口村(にのくちむら)」という場面がありまして、公金に手をつけて逃げ回っている息子と父が再会を果たす場面ですが、その父・孫右衛門を私はうまくできなくて、なかなか役になり切れなかったんです。若かった頃は私もまだ、自分をうまく見せようという邪心がありましたので、2千人近くのお客さまの前で針のむしろに立たされているみたいで、つらくてつらくて。何日目かには「下手と言われてもいいから」と、役に没頭するようにしました。ある意味お客さまをほったらかしにしましたので、良いか悪いかといえば何とも分かりませんが、そんなこともございました。

高田 「彦山権現誓助剱」の六助のような優しい孝行者も、「東海道四谷怪談」の伊右衛門のような極悪非道人も、片岡さんは素晴らしいですが、善人役と悪役のどちらが演じやすいでしょうか。

片岡 これは私だけじゃないと思いますが、ほとんどの役者さんが悪役のほうが好きじゃないですかね。こんなことを言っていいのか悪いのか、「悪」のほうに魅力があるんです。善人というのはなかなか難しい。二枚目というのも面白くないんですよ。三枚目のほうが楽しかったりね。

江戸時代のスターはほとんど悪役、敵役なんです。それこそ伊右衛門などは敵役の部類に入るわけです。悪人が善人を殺して見得を切る場面でお客さまはワーッと喜ばれる。

高田 悪の本性を持っているのでしょうか。

片岡 どこかにあるんでしょうね。これは悪ではないですが、ボクシングなんて、リングの中なら相手がどんなに弱っていても判定よりKOを望まれる。

リングの外でそんなことが起きたら許されないことでも、リングの中ならそれを望まれる。殺しも、お芝居のあの額縁の中では許される。映画でも悪人が主役という作品はたくさんありますよね。もちろん悪にもよりますがね。

役者は人間の気持ちを体から出るもので表す

高田 関西の若手俳優が集まる上方歌舞伎会のご指導など、後進の育成にも努めていらっしゃいます。どのような点を大事に教えていらっしゃいますか。

片岡 歌舞伎は先人が残してくださった「型」を大事に受け継ぐといわれます。

その「型」のほとんどは明治以降に生まれた型です。歌舞伎の長い歴史から見ると非常に新しいことなんです。私の父は「歌舞伎はつねに自由だ」と。稽古をつけてくれるときも、最後はいつも「後はあんたが自分で考えなさい」と言いました。「江戸は型を残し、上方は心を残す」といわれてきたけれども、それも一世代前までの話で、今や差がなくなって型ばかり追う人が増えてきたように思われます。

ですから、若い人たちにも「今のそのお芝居はどういう気持ちでやっているの?」と、考えてもらうんです。「役を自分の立場に置き換えて」と。写実性を重視しながら演じられるようにして、歌舞伎の色に変えていく。そこに重きをおいて教えていますね。

歌舞伎の海外公演に参加した時、同時通訳を聞かずに観ているお客さまもいらっしゃいました。言葉が分からなくても通じるんですよ、気持ちで演じて表現すれば。歌に国境はないといいますが、演劇にも国境はないと思うんです。人間の気持ちの表現というのは世界中一緒ですよ。どの国の人も喜怒哀楽の表現に差はないですよね。ですから役者は、言葉が通じなくても、気持ちを表す、体から出るもので表す。そういうことも若い人に教えています。

片岡仁左衛門氏と高田創審議委員が並んで座っている写真

高田 歌舞伎座に行くと海外の方が増えたなと感じます。

片岡 そうなんです。歌舞伎が世界無形文化遺産に登録されましてね。ただ、正直に申しまして、たまたま現代仕法を取り入れられている芝居を観られたときに、これが世界遺産かと思われるのも、ちょっとつらい。海外の方に分かりやすい古典演目や舞踊もたくさんあるんです。海外公演で、例えば「俊寛(しゅんかん)」や「身替座禅(みがわりざぜん)」は万国共通に受けるんですから、言葉が分からなくても楽しんでいただける芝居がたくさんあります。

玉三郎さんと「鳴神(なるかみ)」と「かさね」で1986年に行ったパリ公演も、お客さまに楽しんでいただけました。その年のパリは何十年ぶりかの猛暑で、当時のパリは楽屋はもちろん、大使館ですら、まだ冷房の設備が無かった時代で、「鳴神」の後、汗だくで化粧の下地がなかなか乗りません。幕間が長引いて客席はブーイングでしたが、幕が開くと初めは引いて観ていらっしゃったお客さまが途中から、だんだんこちらに迫ってくる空気が伝わり、最後はスタンディングオベーションで、何度も何度もカーテンコールをやらせていただきました。この時はホッとして本当にうれしかったですね。文化の違う外国の方が感動してくださる歌舞伎ですので、もっと多くの日本の方々に親しんでいただけるようにするのが、私たちの課題です。

高田 冒頭でお孫さんの千之助さんとのご共演について触れましたが、ご子息の孝太郎(たかたろう)さんも歌舞伎俳優になられ、美しい女形としてご活躍なさっています。松嶋屋の後継ということも心がけておられたのでしょうか。

片岡 私は無責任で、それぞれに好きなことをやらせています。役者の家に生まれたから役者をやらなければいけないというのは、私の場合は非常にありがたかったけれども、それがその人の人生において良いかどうか分からない場合もあり得るんですよね。ですから、本人が悔いのない人生を送ってほしいと願っています。

せがれには、中学を卒業する前に意思を確かめたんです。「このまま役者になるか、他の道に進むか、自分で選んでいいんだよ」と。そうしたら「歌舞伎をやる」と言う。私は「決めたのなら、最後まで頑張りなさい」とだけ言いました。歌舞伎の心、役者の心構えは、私が教えるというより、私の背中を見て覚えてくれと、そういうやり方をしています。

私自身、仕事で学校に行けなくて家を恨んだときもありましたけれども、線路を敷いてもらったことは本当にありがたかったですね。線路がなかったら私はどうなっていたかなと。でも、線路が敷かれたがために、そこから逃れられずにつらい一生を過ごすことも考えられます。外から見たら、歌舞伎役者の家に生まれたら、すーっと苦労なく行くように思われるかもしれませんが、なかなかそうはいかないですから。

高田 今後、歌舞伎以外でのご活動もお考えですか。

片岡 もうそれは考える余裕がなくなってきましたね。気持ち的には映像や、シェイクスピアの仕事もやりたいんですよ。お話もいただくんですけれども、体力的に次の歌舞伎公演に残しておきたい。以前は、舞台がないときは、ほかのお仕事をして忙しい自分を楽しんでいた時期もありましたが、今は次の舞台のためにエネルギーを置いておこうと。そんな年になってしまいました。

高田 本日はありがとうございました。